陳舜臣「青山一髪(せいざんいっぱつ) 孫文起(た)つ 辛亥への道」を読む

辛亥革命の指導者が孫文である。孫文は、日本の教科書には三民主義を唱えた人として記載されている。三民主義とは民族主義・民主主義・社会主義のことであるらしい。
孫文ははたして英雄であったのか。第2次大戦後、中国では国民党と中国共産党が戦い、国民党は台湾に逃げた。その結果、中国本土では共産党が政権を掌握し、中華人民共和国が誕生した。国民党は孫文が結成した党であるから、孫文は現在の中国では嫌われているのかと思いきや、孫文は台湾でも中国でも国家の父として尊敬されている。孫文が尊敬されるのは、中国を漢民族の支配する国に戻したからであろう。
清を支配していたのは漢民族ではなく、満州人である。300万人の満州人が4億人の漢民族を支配していたのである。清の悪習といえばすぐに、纏足(てんそく)と辮髪が思い浮かぶ。この2つの悪習は満州人の支配を象徴している。
満州人が支配していた清は国力がだんだん落ちていき、19世紀になるとかなり疲弊し、欧米列強は清を侵し、植民地化しようとした。極めつけは日清戦争の敗北である。それまでの清は眠れる獅子としてまだ世界から恐れられていたが、敗北によって、眠れる豚と蔑まれるようになった。
日清戦争に負けた理由はまさに権力者の腐敗であった。当時の清を牛耳っていたのは皇帝ではなく、皇帝の母親の西大后であった。権力は西大后に集中し、西大后は贅沢の限りを尽くした。西大后の浪費によって、戦費を十分用意できなかったのである。戦争のために、新しい軍艦を建造することもできなかった。清は負けるべくして負けたのである。
日清戦争後、いよいよ漢民族の間で、満州人の支配を打ち破ろうとする運動が活発化した。孫文も立ち上がったのである。
陳舜臣の「青山一髪 孫文起つ 辛亥への道」は孫文が革命を成功させるまでのことを描いた小説である。さすがに、中国史を知り尽くしている陳の筆になったものであるので、歴史的背景が詳しく書かれている。日本の作家では、陳は中国の歴史小説の第一人者である。また、陳は司馬遼太郎の同級生である。
孫文は革命家であった。ただ、自ら武器をもって、政府軍と戦ったわけではない。孫文は中国本土にいることができなかったのである。孫文は中国の新しい姿を示し、革命の賛同者を増やしていった。孫文によって、世界中の漢人の間で革命運動が盛り上がっていった。
孫文は中国で生まれたが、幼い頃ハワイに移住し、その後香港に戻って医者になった。孫文は英語が堪能で何よりも本を読むことが好きであった。孫文は清に絶望し、革命家へと成長していくのである。
1895年、広州で初めて蜂起したが失敗した。これ以後、孫文は清政府から睨まれ、中国にいることができなくなった。清政府は密偵を差し向け、アメリカでもイギリスでも孫文を捕まえようとした。
孫文は日本・アメリカを拠点にしながら、革命の賛同者を募っていった。孫文が最も力を入れた仕事は資金集めである。資金がなければ、どんなに理念が立派であっても革命は成功しない。孫文は世界中で演説し、そして資金を集めた。
それこそたくさんの人が孫文を応援した。その中に、宮崎滔天・犬養毅・頭山満などの日本人がいた。特に、宮崎はすべてにおいて孫文を援助した。
孫文を指導者とする革命派は清政府に弾圧されながらも最後、革命を成功させた。孫文は世界中を回って革命運動を支えたのである。
辛亥革命後の中国の歴史を振り返ると、中国は苦難の道を歩む。それでも、孫文は中国人にとって英雄であったのである。


写真は、横浜中華街にある関帝廟です。三国志でお馴染みの関羽を祀った廟です。孫文は、この廟の隣の学校を創立しました。ちなみに、関羽廟のご利益は、交通安全、商売繁盛、入試合格、学問だそうです。
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