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中村健之介訳「ニコライの見た幕末日本」を読む

お茶の水 ニコライ堂


 神田駿河台にあるニコライ堂はロシア正教の宣教師ニコライに由来するという。
 ニコライは1836年にロシアの田舎で生まれ、首都ペテルブルグの神学大学に進み、1861(文久元)年領事館付き司祭として日本の箱館に来た。極東の異教徒に宣教することを決意したのである。1869(明治2)年に一旦ロシアに帰るが、1871(明治4)年に再び箱館に戻ってきた。その後、ロシアに帰ることなく、日本に骨を埋めた。
 特筆すべきは、1904(明治37)年に始まった日露戦争のとき、ニコライは日本に留まることに決め、日本人正教徒たちに、日本人の義務として日本が勝つように祈ることを勧めたことである。
 ニコライは箱館の地に着くや、日本に関して猛勉強した。日本語をまず学び、日本の歴史・文化そして宗教を研究した。当時、箱館にはまだアメリカに密航しない新島襄がいて、ニコライは新島から「古事記」を教わり、逆に新島に英語と世界情勢について教えた。 ニコライは、1869年にロシアに戻るが、このとき、ロシア報知という新聞に日本についての論文を発表した。ロシア報知はドストエフスキーの「罪と罰」が掲載された新聞でもある。
 この論文が、中村健之介訳「ニコライの見た幕末日本」(講談社学術文庫)である。

函館 高田屋嘉兵衛像


 「ニコライの見た幕末日本」はニコライが自ら見た日本についての感想と、研究した日本の歴史・宗教などについて言及したものである。
 まず、ニコライが驚いたのが日本人の民度の高さである。極東の未開の野蛮人だと思っていた日本人が予想に反して、聡明で礼儀正しいことに正直驚いている。国自身も平和であった。
 ロシア正教を布教するニコライとしては当然、日本人の宗教に多大なる関心をもち、歴史的にそれを研究している。この論文の大半は日本の宗教に関するものである。
 ニコライは日本には、大きく四つの宗教があることを発見する。一つは、日本古来の神道であり、二つ目はインドから来た仏教であり、三つ目は中国から来た儒教であり、四つ目は西洋から来たキリスト教である。
 調べていくうちに最もニコライを悩ませたのは仏教である。まず、日本古来の神道の核心の存在である日本の神々と仏教の神々が融合していることが、ニコライにはわからなかったというか不思議そのものであった。また、仏教はたくさんの宗派に分かれており、教えも行動規範もまったく違うことに驚いた。僧侶は妻帯しないものだが、妻帯してもよい宗派もある。
 ニコライが驚きそして感動したのは、日本にキリスト教信者がいたことである。ニコライが来日したときはまだ江戸時代で、キリスト教は邪教として、信じてはいけないことになっていた。過去、日本で隠れキリシタンが迫害されたことをニコライは知っていたが、長崎にその隠れキリシタンが多数いることにニコライは感激した。
 ニコライは幕末から明治維新を経験し、そして明治という時代を生き抜いた。ニコライは明治45年、すなわち明治の最終年まで日本を見続けて没したのである。明治になって、日本は急速に過去の日本を捨て、西洋文明を貪欲に吸収した。ニコライはこの日本の姿に疑問をもちつつも、日本をこよなく愛した。ニコライにとって、日本はおそらく、母国ロシア以上のものだったに違いない。

 訳者の中村健之介は宗教家ではなく、比較文学者であり、ドストエフスキーの研究家でもある。中村がニコライに興味をもったのは、ニコライがロシア正教の宣教師であるからだ。ロシア正教とは、ドストエフスキーの世界を解明する上で重要なキーポイントである。実際、ドストエフスキーはニコライの書いた論文に興味をもったという。
 世界で一番ドストエフスキーが読まれるのは日本であるという。日本人とロシアはロシア正教でも繋がっているのである。

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 写真上は、東京都千代田区関大駿河台に建っている正教会の大聖堂で、正式名は「東京復活大聖堂」、通称「ニコライ堂」と呼ばれています。日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライに由来します。
 写真下は、函館に建っている江戸時代後期の廻船業者、海商である高田屋嘉兵衛像です。

<函館>

函館 豪商旧相馬邸 門

 写真上は、明治期、北海道屈指の豪商相馬哲平の館の門です。

函館 豪商旧相馬邸案内板

 写真上は、明治期、北海道屈指の豪商相馬哲平の館の案内板です。案内板には次のように記されています。
< 1861年、28歳の青年が大志を抱き越後から函館に渡る。榎下武揚や土方歳三が戦った函館戦争の渦中、惨禍を逃れる市民の中で、米の騰貴を見越した大勝負を賭けて巨利を得る。その後、北海道屈指の大商人としての道を歩む傍ら、「郷土報恩」を信条として、函館区公会堂をはじめ、数々の公共事業に、私財を投じ、函館の発展に尽くした。
 旧相馬邸は明治41年に建てられた和洋折衷の歴史的建造物で、旧イギリス領事館を眼下に、旧函館公会堂に隣接した堂々たる建造物である。>

函館 豪商旧相馬邸から眺めた函館港

 写真上は、旧相馬邸の庭です。庭から、旧イギリス領事館や函館港が望めます。旧相馬邸の傍には、ロシアの大学があります。ニコライもこの辺を散歩でもしていたのだろうか。

函館 高田屋嘉兵衛屋敷跡の石碑

函館 高田屋嘉兵衛屋敷跡の案内板

 写真上は、高田屋嘉兵衛屋敷跡の石碑と案内板です。案内板に次のように記されています。
< 箱館の発展は、高田屋嘉兵衛によってその基礎が築かれたといっても過言ではない。明和6(1769)年兵庫県淡路島に生まれた嘉兵衛は、寛政8(1796)年28歳のとき箱館に渡り、以来、文政元(1818)年郷里に帰るまで、箱館を拠点にして回漕業や漁業経営などで巨額の富を得た。
 嘉兵衛は、国後および択捉両島の漁場を開拓し、北洋漁場の先駆者として歴史になをとどめたばかりでなく、公共事業や慈善事業に大きな功績を残した。
 高田屋の全盛は、寛政13(1801)年に嘉兵衛のあとを嗣いだ金兵衛(嘉兵衛の弟)が、幕府の許可を得てこの地域5万坪を拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた頃である。その規模は、敷地面積で2町(約220m)四方もあり、邸内には山を築き、池を造り、また高価な石が置かれていた。
 市内にはほかに高田屋嘉兵衛の銅像(宝来町)や、大町の高田屋本店跡(標柱)があり、船見町の称名寺には高田屋一族の墓や嘉兵衛顕彰碑がある。>

函館山 頂上

 写真上は、函館山の頂上です。頂上から函館港が一望でき、眺めは抜群です。

函館山 伊能忠敬の顕彰碑

 写真上は、函館山に飾ってある伊能忠敬の顕彰碑です。司馬遼太郎 の作品で、高田屋嘉兵衛の生涯を描いた『菜の花の沖』の中にも出てきます。

函館朝市の風景

 写真上は、函館朝市の様子です。

函館朝市 いくらうに丼

 写真上は、函館朝市の食堂でいくらうに丼を食べました。

函館朝市 うに焼き

 写真上は、函館朝市の食堂でうに焼きも食べました。

新幹線 函館北斗駅改札口

 写真上は、新函館北斗駅です。

函館新幹線はやぶさ 

 写真上は、函館新幹線はやぶさです。

 併せて読むと、江戸時代、特に幕末がよく理解できます。江戸時代の文化文明の進歩の度合いが、その後の日本と朝鮮の差として現れます。
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