田中彰「北海道と明治維新」を読む

学生時代、ソ連(今のロシア)に旅行したことがある。モスクワ・レニングラード(今のサンクトペテルブルグ)を回るものであるが、出発時、一路飛行機で成田空港からモスクワに向かうという行程ではなかった。
船で敦賀から1泊かけてナホトカに行き、そこからさらに1泊かけて大陸横断鉄道でハバロフスクに向かい、そしてハバロフスクからは空路モスクワに向かうのである。ハバロフスクからモスクワまで8時間もかかった。やはりロシアは広大であった。
初めての外国だという浮き浮きした気分で、船から大陸の隅の町であるナホトカに上陸したとき、なつかしい匂いが鼻をつき、少し驚いた。その匂いが、初めて北海道の土地を踏んだときの匂いと同じであったからだ。私は思わず、大昔は北海道と大陸は陸続きであったのだと悟った。
北海道というと人はどのようなイメージを持っているのだろうか。青年時代の私は、北海道に対して暗いイメージを持っていた。地の果てというイメージである。志賀直哉の「網走まで」を高校の教科書で読んだときは暗い気持になったし、また、これも教科書に載っていたのだが、有島武郎の「生まれ出づる悩み」を読んだときも暗い気持になった。極め付きは水上勉の「飢餓海峡」である。どうしようもなく暗い気分になった。飢餓海峡とは津軽海峡のことである。同じ日本でも、本州と北海道は狭い海峡を隔てて深く断絶されているのではないかと思った。
仕事でたびたび北海道を訪れるようになって、私の北海道に対する印象もだいぶ改善されたが、いまだに心の隅で暗いイメージを持ち続けている。
北海道の人の言葉は標準語に近くかなり親しみやすいが、彼らが本州を指すのに内地というのには違和感を覚えた。
北海道は暗いイメージばかりではない。歴史を少し学べば、北海道が日本の近代化にあたり大変な貢献をしていることがわかる。その筆頭はやはり札幌農学校であろう。日本の近代史に燦然と輝く世界的な教養人新渡戸稲造はこの学校の出身であり、他に内村鑑三、有島武郎など近代史に残る人は枚挙に暇がない。北海道なくして、日本の近代を語ることは不可能である。

田中彰「北海道と明治維新」は、明治維新から明治初期における北海道の実情を感情を込めて記述した歴史書である。
この本の底に流れている主題は、本の最後に書かれた次の文章に集約されている。
だが、〝北海道共和国〟の想念は、いまなお人びとの胸のなかに、ひそやかな形でさまざまな思いを込めて生き続けている。いや、生き続けさせなければならないのだ。それは沖縄の闘いの歴史と、いまなお続く日々の痛みを共有し、共感するためにも─。
私は現在問題となっている沖縄の独立論と相まって、北海道の独立論を主張する著者の希望に同調はしないが、北海道に長く住み、北海道の歴史を熟知している著者の思いは理解できる。北海道共和国は著者にとって理想社会なのであろう。
この本を名著にする理由は、著者の北海道共和国に対する思いというより、著者の北海道に対する愛情のためであると思う。
内容は、やはり箱館戦争に力点が置かれている。旧幕臣の榎本武揚をリーダーとする反政府軍が北海道共和国の建国に動いたというものである。実際、反政府軍の幹部を決めるに選挙を行っている。共和国への第一歩である。北海道共和国に言及した当時の海外の文献の紹介もしている。北海道共和国はかなり現実的なものであったらしい。
明治維新の本質に迫るに、この本は貴重である。


写真上は、芝公園にある開拓使仮学校跡の石碑です。仮学校が建っていた当時は、増上寺の境内でした。江戸時代の増上寺は徳川家をバックに権勢を誇っていました。現在でも、地下鉄の御成門駅や大門駅など増上寺に由来する駅名があります。公園内には、七代将軍家継の霊廟の御門であった「有章院二天門」が保存されています。
明治新政府は、明治2年、榎本武揚の旧幕府軍を鎮圧したあと、増上寺の境内に仮学校を置きました。明治6年に札幌に移転し、南下政策を推し進めるロシアを念頭に、北海道の開発を急ぎました。
写真下は、多磨霊園に座っている新渡戸稲造翁の像です。新渡戸は、札幌農学校(後の北海道大学)は、二期生として入学しました。
<日本で最初に北海道を測量した伊能忠敬>



写真上は、富岡八幡宮に建っている伊能忠敬の像です。伊能忠敬は、寛政12年(1800年)に蝦夷地(北海道)の測量を行うために、富岡八幡宮から出発しました。
写真中は、台東区源空寺にある伊能忠敬墓所の墓所です。墓所の近くには、師匠の高橋至時の墓所もあります。写真下は、墓所の案内板です。
<多磨霊園に眠る札幌農学校出身の偉人たち>



写真上は、新渡戸稲造の墓所です。写真中は、内村鑑三の墓所です。写真下は有島武郎の墓所です。
数学道場・作文道場のホームページには、新渡戸稲造の「武士道」「随想録」、内村鑑三「代表的日本人」、有島武郎「或る女」「生れ出づる悩み」の読書感想文を掲載しています。
<北海道を愛した歌人石川啄木>


写真上は、上野駅のホームにある「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」の歌碑です。写真下は、盛岡城に建っている「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」の歌碑です。
北海道を読んだ短歌には、「みぞれ降る 石狩の野の汽車に読みし ツルゲエネフの物語かな」、「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」など多数あります。啄木の墓所は函館にあります。
<箱館戦争 榎本武揚>


写真上は、墨田区に建っている旧榎本武揚邸宅跡の案内板です。写真下は、駒込の吉祥寺にある榎本武揚の墓所です。
<石狩、十勝では拓殖事業 高島嘉右衛門>


高島嘉右衛門は、横浜の実業家および易断家です。嘉右衛門は、明治初期に横浜港の埋め立て事業を手がけたことで横浜の発展に寄与し、高島町という地名にも残っています。写真上は、横浜が一望できる高台にある旧高島嘉右衛門邸宅跡に建っている案内板です。写真下は、同じ高台にある明治初期の、現在の横浜駅辺りを写した写真です。
高島嘉右衛門は、1892年(明治25年)に、北海道炭礦鉄道株式会社の社長に就任し、石狩、十勝の拓殖事業を行いました。
併せて読むと、日本の近代産業の成り立ちがよくわかります。
・長尾剛「広岡浅子 気高き生涯」を読む
・林洋海「<三越>をつくったサムライ 日比翁助」を読む
・白崎秀雄「鈍翁・益田孝」を読む
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・小林一三「私の行き方」を読む
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