永倉新八「新撰組顚末記」を読む

考えてみれば、歴史を学ぶにあたり、歴史上の人物を指して、「あいつは悪い奴だ」と決めつけるほど意味のないことはない。歴史とは事実を調べ、なぜそのような事実が起こったかを考えるもので、事実そのものの良し悪しを判定するものではない。戦前は悪い時代だったという先入観のもとで、戦前を見たら、本当の戦前の日本の姿はわからないものだ。歴史に良い・悪いなどあるはずがない。
考えてみれば、新撰組が活躍した幕末は、幕府側と反幕府側とのいわゆる戦争状態である。戦争において残虐非道な行為がなかったという方がおかしな話である。官軍だって、新撰組よりもっとひどいことをやっている。新撰組が後世、汚名を着せられるのは、とりもなおさず、幕府側が官軍に敗れたからである。近藤勇が多くの長州人を殺したのは当然であり、逆に、近藤が官軍に捕まって首を斬られるのも当然なのである。戦争とはそのようなものであり、平和である現在の価値観で、過去の戦争の是非を問うことに意味があるとはとうてい思えない。
さて、新撰組であるが、主だった幹部は、函館戦争終結とともに皆、この世からいなくなったと思っていたが、一人永倉新八は、大正の時代まで生き残った。私はこの事実を知ったとき、何ともいえぬ、日本人の寛容さを思い知らされた。薩長政府は永倉を許したのである。特に、長州人にとっては、永倉は殺しても殺し足りないくらいの人間であったはずだ。戦争が終わったあと、勝者である明治政府は、敗者に対して水に流したのである。この明治政府の姿勢が日本を急速に近代化に向かわしめた。近代化を土台から支えたのは旧幕臣であった。

「新撰組顛末記」は当事者本人が事実を語った第一級史料である。一読して、ほとんどが周知のことであるが、考えてみれば、当たり前のことであろう。この本を参考にして、多くの新撰組に関しての本が書かれているからである。
新撰組というと、尊王攘夷を標榜する薩長の志士たちを殺す集団だと思われているが、そのなれそめは奇妙である。実は、新撰組の初めは、尊王攘夷を行うために集まった浪人たちの集団であったのである。その集団を組織したのが清川八郎である。清川は幕府をまんまと騙し、将来、幕府を倒そうとする集団に、幕府は金を出したのである。
清川は浪士を集めて京に上った。清川のもとに集まったのが、芹沢鴨、近藤勇、沖田総司、永倉新八などである。芹沢は水戸藩出身の尊皇家で、近藤・沖田・永倉は剣術仲間である。
京に上ると、清川の計画が露見し、幕府の怒りを買い、清川は殺されてしまう。残った浪人たちは、京都守護職松平容保の支配下になり、新撰組を結成した。隊長は芹沢と近藤がなった。
芹沢は肝が据わり、豪傑で、戦略家であるが、非常に短気な性格で、気に喰わないことがあると、平気で暴力を振るった。芹沢の回りは皆、芹沢を恐れた。そのため、芹沢は同志に殺された。
その後、近藤がリーダーとなり、京の警備にあたった。新撰組の一番の敵は長州であった。長州人を探しては殺した。池田屋事件が最たるものである。長州は京から撤退するが、新撰組との戦いは函館戦争まで続く。
新撰組が長州人たちを目の仇にして、多くを殺したのは事実であるが、それがあったからこそ、長州は本気になって倒幕に向かったといえなくもない。このように考えれば、新撰組も歴史の重要な登場人物であることは間違いない。


<新撰組のゆかりの地を訪ねて>
上の写真2枚は、近藤勇が官軍に捕縛され斬首された板橋の処刑場に建つ近藤勇の銅像と永倉新八の墓所です。ここに近藤勇と新撰組隊士の供養塔を建立したのは永倉新八です。
余談ですが、現在は池袋から赤羽までを結ぶ赤羽線板橋駅前に供養塔はありますが、明治時代は、ただの野原で、品川から赤羽まで鉄道を敷設するときに、本来は宿場町の板橋を通す予定でしたが、住民の反対にあい、断念して野原だった池袋から赤羽までを敷設して、横浜から資材を運び、現在の東北本線を敷設しました。幾多の障害や困難があって現在の山手線は走っています。これらのことは中村健治「山手線誕生」に詳しく述べられていますので参考にしてください。中村建治「山手線誕生」を読む
供養塔に関すれば、供養塔の前に板橋駅ができたことで、訪れる人が増えて、新撰組の再評価になったのではないでしょうか。案内板には次のように記されています。
< 慶応四年(1868)四月二十五日、新撰組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近」に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
本供養塔は没後の明治九年(1876)五月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。高さ三・六メートル程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。正面には、「近藤勇 冝昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。なお、近藤勇の諱(いみな)である昌宣が冝昌とされていることについては明らかになっておりません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳年五月十一日 発起人 旧新撰組組長永倉新八改杦村義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。
戦術の方針の相違から一度は近藤と袂を分かった永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられていますが、本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新撰組ゆかりの者たちが祀られているので、新撰組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。>

< 幕末に新撰組局長として知られる近藤勇の道場「試衛館」は、市ヶ谷甲良屋敷内(現市ヶ谷柳町二五番地)のこのあたりにありました。この道場で、後の新撰組の主力となる土方歳三、沖田総司などが剣術の腕をみがいていました。

< 浪士隊結成の処静院跡の石柱
この石柱は、伝通院の塔頭(たっちゅう)の一つで伝通院前の福聚院北側にあった
処静院の前に建っていたものである。
石柱の文字は、修行と戒律のきびしさを伝えている。
処静院は、その後、廃寺となった。
文久三年(一八六三)二月四日、幕末の治安維持を目的とした組織ー“浪士隊”の結成大会が処静院で行われた。
山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清川八郎を中心に、総勢二五〇人。その後、浪士隊を離れて、新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが
平隊員として加わっていた。
一行は文久三年二月八日、京都へと発った。年号が明治と改まる5年前のことであった。>
写真下は、伝通院山門と伝通院に眠る清川八郎の墓所です。ちなみに清川の墓のとなりには、詩人の佐藤春夫の墓所がありました。



< この地はもと「釜屋」のあったところです。釜屋は南品川にあった建場茶屋のひとつで、東海道を上がり下りする旅人たちは、ここで休息したり、見送りや出迎えの人たちと宴会をひらいたりしました。大へん繁盛したので、のちには「本陣」とよばれたりしました。
幕末動乱の世情を反映して慶応三年(1867)には連日のように幕府関係者が休んだり宿泊した記録が残っています。長井尚志(若年寄格)をはじめ、奉行、代官、歩兵隊々長他、旗本達が数多く利用しました。
有名な新撰組副長土方歳三も、隊志を連れて、慶応三年十月二十一日に休息しています。
また、慶応四年一月(1868)の鳥羽・伏見の戦いに敗れた新撰組隊志たちは、同年十五日に品川に上陸し、しばらく釜屋に滞在しました。
今から百二十余年前を偲びつつ、ここに記す次第です。 平成八年九月二十九日 青物横丁商店街>

< 江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた鉄舟は、天保七年(1836)六月十日幕臣小野朝右衛門の五男として江戸本所に生まれた。通称は鉄太郎、諱は高歩(たかゆき)、字は曠野(こうや)、猛虎、鉄舟、一楽斎は号である。父は飛騨郡代在任中、高山で井上清虎に一刀流を学んだ。嘉永五年(1852)江戸に戻り槍術(そうじゅつ)の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣いだ。幕末の動乱の中で東征軍の東下に対し、駿府で西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させた。明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内少輔などを歴任した。公務の傍ら剣術道場を開き、明治十三年(1880)には無刀流を創始した。書家としても優れ、また明治十六年(1883)臨済宗普門山全生庵の開基となった。開山は松尾越叟(まつおえつそう)である。明治二十一年(1888)七月十九日五十三歳で死去した。
山岡家墓所には、基檀上にある有蓋角塔の正面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」とある。墓所の周囲には、鉄門といわれる石坂周造、千葉立造、松岡萬(つもる)、村上政忠の墓がある。>
石坂周造については真島節朗「『浪士』石油を掘る」を読むを参考にしてください。

< 新撰組隊長近藤勇は、戊辰の役で奮戦中千葉で力つきついに薩長の手に捕えられ、首をはねられました。
遺体は東京三鷹市の龍源寺に埋葬されたが、首は京都の三条大橋下流にさらされた。しかし何者かが持ち去りこの地に埋めたと言われる。このお墓は、會津藩の手によって建立されたが、それは會津藩主容保公が京都守護職中、新撰組はその支配下にあり、挺身幕府のために力をつくした。
また、土方歳三など一行が會津に来て、戦闘に参加した際この墓を参詣したと伝えられる。
墓石には「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号と、その上に丸に三つ引きの近藤家の家紋が彫られている。
毎春4月25日の命日には、墓前祭が執り行われる。 萬松山 天寧寺>
写真下は、会津若松市内に建っていた「まちに歴史あり 近藤勇」の案内板と松平容保公の墓所です。



< 父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中濱萬次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。安政3(1856)年に長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。文久2(1862)年に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。慶応3(1867)年、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。
戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使の出仕。明治7(1874)年に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て文部大臣、外務大臣などを歴任した。
明治38(1905)年から、73歳で没する同41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。>
新撰組の活躍場は、京都、大阪、東京、甲府、流山、会津、函館と多方面に広がっています。現在はそれらで写した写真はありませんので、東京を中心に散策した場所を載せました。ゆくゆくは、それらの場所を訪ねて追加したいと思っています。
併せて読むと、幕末がよく理解できます。
・エメェ・アンベール「絵で見る幕末日本」を読む
・藤田覚「幕末の天皇」を読む
・H.シュリーマン「シュリーマン旅行記 清国・日本」を読む
・アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」を読む
・渡辺京二「逝(ゆ)きし世の面影」を読む
・宮本常一の「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」を読む
・佐藤雅美『大君の通貨 幕末の「円ドル」戦争』を読む
・松尾龍之介「長崎蘭学の巨人─志筑忠雄とその時代」を読む
・ハーバート・G・ポンティング 長岡祥三訳「英国人写真家の見た明治日本 この世の楽園・日本」を読む
・杉本鉞子著 大岩美代訳 「武士の娘」を読む
・今泉みね 金子光晴解説「名ごりの夢 蘭医桂川家に生れて」を読む
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