夏は来ぬ

卯の花が咲き始めると、初夏を感じます。
1896年に発表された日本の歌曲に、『夏は来ぬ』(なつはきぬ:作詞:佐佐木信綱、作曲:小山作之助)があります。歌詞の中には卯の花が出てきます。卯の花の名の由来は、旧暦の四月(卯月)に白い花を咲かせるウツギの花(写真上)を指します。歌詞は次の通りです。
卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ
さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ
橘(タチバナ)の 薫る軒端(のきば)の
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ

写真は、熱海にある佐々木信綱旧居 凌寒荘 です。明治時代後半から熱海は別荘地となり、多くの著名人の別荘が建てられました。凌寒荘の案内には次のように記されています。
< 昭和19年、72歳のとき肺炎を患い病後の静養地として、冬の寒さの余り厳しくない熱海に転居して来た。「凌寒荘」の名は友人の徳富蘇峰が中国の名文章家、王安石の詩の一節をとって名付けた。
6歳のときから父の指導で万葉集、山家集を暗誦し作歌を始め、27歳のとき万葉集風の「心の華」を発刊する一方、多くの優れた門人を輩出した。明治36年、32歳で処女歌集「思草(おもいぐさ)」を出している。
願わくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや(歌集「思草」より)
大正元年、第二歌集「新月」を刊行する。
ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲(歌集「新月」より)
昭和23年、妻雪子に先立たれた悲しみは、歌集「山と水と」に次のように歌われている。
呼べど呼べど遠山彦のかそかなる声はこたへて人かへこず
昭和38年12月2日この地で永眠された。(享年92歳)>
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