佐藤雅美『大君の通貨 幕末の「円ドル」戦争』を読む

ところが薩長が天下を取るや、攘夷などどこ吹く風で、国を諸外国に対してどしどし開いていった。この方針の急回転はなぜ起こったのであろうか。小説やテレビドラマに出てくるのは英雄たちの動きばかりである。
歴史は一部の英雄たちによって動くと思うと歴史の本質はまったくわからなくなる。なぜ幕府は潰れたのか。西郷隆盛や坂本龍馬たちだけを見ていてはわからない。おそらく、幕藩体制そのものがもはや日本という国を維持する力を失っていたのであろう。その第一の要因は経済的疲弊であろう。幕府も諸藩も借金漬けであった。幕府は貨幣を改鋳することでかろうじて財政を維持していた。
なぜ戦争をするのか。好き好んで戦争をする国などあろうはずがない。それにはかならず経済的利害が絡んでいる。経済的利害を平和的に調整できないときに戦争は起こるのである。これは昔もそして現在も変わらない。経済的利害とは人間が存在する限りつねに存在するのであるから、世界はいつも戦争の危機に直面しているのである。これこそ、歴史が教えることである。
ハリスといえば、日本史上たいへん有名である。アメリカでは歴史上の英雄の一人に数えられている。日米修好通商条約はアメリカが初めて外国と交わした本格的な条約である。幕府の人間が条約批准のためにアメリカに行ったとき、アメリカ人から盛大な歓迎を受けたことからもアメリカの喜びぶりがわかる。
この日米修好通商条約を締結するにおいて、アメリカの全権は総領事のハリスであった。全権といっても交渉したアメリカ側の人間はハリス一人である。ハリスはたった一人で条約を勝ち取ったのである。当時、イギリスにしてもフランスにしても武力を用いて清と条約を交わしている。
ハリスは唐人お吉とのラブロマンスで知られているが、日本人のほとんどはハリスに対して好印象を持っているはずだ。実際のハリスは、本当に歴史上の英雄であったのだろうか。
佐藤雅美の『大君の通貨 幕末の「円ドル」戦争』は幕末を扱っている歴史小説であるが、一風変わっている。歴史小説というよりも経済小説といった方がよいかもしれない。薩長の英雄たちは登場しない。とにかく感銘したのは、今まで謎に思っていたことが、解明できたことである。それは、なぜ幕末に大量の小判が海外に流れたかである。この本は明確にその謎を解いている。
主人公は幕府要人とハリスそしてイギリスのオールコックである。そして物語の中心をなすのは幕府とアメリカ・イギリスを中心とする西洋諸国との通貨戦争である。
なぜ通貨戦争が起こったのか。それは日本において金と銀の交換比率が1:5であるのに対し、世界では1:15であったからだ。世界に較べて、日本では、銀でもって金を三分の一の値段で買うことができたのである。この仕組みを知っていると、難なく莫大な利益を得る錬金術が可能であった。
たとえば、銀5グラムを日本で金1グラムに変えて、それを上海にもっていけば、銀15グラムになるのである。利益は銀10グラムである。これを繰り返せばいくらでも大金を手にすることができる。実際には当時の日本では、金でできた小判1両は銀でできた1分銀4個と等価であった。そして、為替は1ドル1分銀3個であった。これは、銀の含有量が同じだからだ。この仕組でいくと、4ドルは1分銀12個と等価であり、1分銀12個は小判3両と等価である。すなわち、4ドルを小判3両に両替し、上海にもっていくと、小判3両は12ドルに化けるのである。
ハリスはこの仕組を知り、蓄財に励んだ。総領事としての特権を生かし、せっせとドルを小判に変えて、それを上海にもっていき莫大な利益を得たのである。ハリスだけではない。この仕組を知った外国人は我先にドルを小判に変えた。かくて小判は大量に海外に流れたのである。
幕府もただ手をこまねいて見ていたのではない。1ドルを1分銀にしようとしたが、オールコックなどの反対に会い、なかなかうまくいかなかった。幕府と西洋は武力は使わないが、壮絶な戦いをしたのである。
幕末以降、日本の貨幣とドルはつねに戦っているのだ。


<名所・旧跡をめぐって>
写真上は、東京銀座に建っている銀座発祥の地 銀座役所趾の石碑です。石碑には次のように彫られています。
< 慶長十七(1612)年徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ明治二年遂に銀座を町名とする事に公示する>

井伊は、安政の大獄の影響で、多くの日本人はよい評価を与えていませんが、こと横浜に限っては大恩人です。明治時代は、薩長閥が歴然とした力を持っていた時代です。銅像建立後、数回に渡って、井伊に恨みのあるものが銅像の首を跳ねたということです。安政の大獄で、長州人の吉田松陰を処刑したのは、井伊の一番の不覚であったかもしれません。
< 明治四二年七月、横浜開港五〇年記念に際して、旧彦根藩有志が藩主の開港功績の顕彰のため、大老井伊掃部頭直弼の銅像を戸部の丘に建立し、その地を掃部山と名付けて記念しました。銅像の左側にある水飲み施設はその時に子爵井伊安より寄付されたものです。
当時の銅像は、藤田文蔵、岡崎雪声(せっせい)によって製作され、その姿は「正四位上左近衛権中将」の正装で、高さは約三・六メートルを測りました。しかし、当初の銅像は、昭和一八年に金属回収によって撤去され,現銅像は,昭和二九年,横浜市の依頼により慶寺丹長(けいじたんちょう)が製作したもので、その重量は約四トンあります。
なお,台石は妻木頼黄(つまきよりなか)の設計で、高さは約六・七メートルあり、創建当時のものが残っています。>
戦後、井伊の評価も変わり、横浜市自ら、恩人に対して報いるために、井伊の銅像を建立しました。

< 安政元年(1854)年2月から3月にかけて、日米代表が横浜村の海岸で会見、和親条約を結んだ。これは、神奈川条約ともいわれ、日本の開国を促し、本市の誕生の遠因ともなった。歴史的舞台となった応接所のあとは、神奈川県庁の付近である。>

< 本覚寺は,臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(1532)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。
開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらには湾内を見通すことができる本覚寺をアメリカ領事館に決めたという。
領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。>

< 安政五年(1858)六月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、安政六年(1859)善福寺をアメリカ公使館として八月に赴任します。当時の宿館としては,奥書院や客殿の一部を使用していましたが、文久三年(1863)の水戸浪士の焼き討ちで書院などを消失したため、本堂、開山堂なども使用しました。明治八年(1875)に築地の外国居留地へ移転します。当時の建物は戦災で焼失しています。
寺には「亜米利加ミニストル旅宿記」(港区指定文化財)が残されており,外国公使館には使用された寺の実態がよく伝えられています。>

< 開港とともに来日した宣教師の1人で神奈川成仏寺に3年仮寓、文久2年(1862)冬、横浜居留地39番地に移転、幕末明治初期の日本文化の開拓に力をつくした。聖書のほんやく、和英辞典のへんさん、医術の普及などがそれである。昭和24年(1949)10月記念碑が邸跡に建てられた。>

文久2年に起こった生麦事件の時には、博士が本覚寺のアメリカ領事館から呼ばれ、薩摩藩士に切られ、深手を負った者の手当てをしました。なお有名なリチャードソンは、薩摩藩士の一太刀、とどめを刺され、落馬して絶命しました。
宗興寺の案内には次のように記されています。
< 開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士がここに施療所を開いた。これを記念する石碑が境内にたてられている。
このヘボン博士は、「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行った。後に、明治学院を創設するなど、我国の教育にも尽力した人である。> 写真下は、成仏寺です。


< アメリカ総領事ハリスの通訳兼書記官として、安政三年(1856)七月に下田に到着したオランダ人ヒュースケンは、その後安政六年江戸麻布善福寺にアメリカ仮公使館が設けられるに及び江戸に入り、ハリスの片腕となって、困難な日米間の折衝に活躍し、日米修好通商条約を調印にいたらしめ、また、日本と諸外国との条約締結にも尽力した人物である。
万延元年(1860)十二月、ヒュースケンは日本とプロシアとの修好条約の協議の斡旋のため、会場であった赤羽接遇所と宿舎の間を騎馬で往復していたが、五日午後九時ごろ、宿舎への帰路、中ノ橋付近で一団の浪士に襲われ、刀で腹部等を深く切られて死亡した。
墓はカトリック教徒のため土葬が必要であったが、当時御府内では土葬が禁止されていたため、江戸府外であった光林寺に葬られた。>

< 銀座とは江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、通用銀貨の検査や銀地金の購入などを扱う銀座役所を総称した組織でした。そしてその経営は幕府の直営ではなく、御用達町人に委託しました。
江戸の銀座は慶長十七年(1612)に今の銀座二丁目の場所に置かれ、その百八十八年後の寛政十二年(1800)六月に,寛政改革の一つである銀座制度の大改正のため一旦廃止されました。
その年の十一月、改めてこの人形町の場所に幕府直営の度合いを強めた銀座が再発足しました。
当時この付近の地名が蛎殻町だったため、この銀座は人々から「蛎殻銀座」と呼ばれ、明治二年(1869)に新政府の造幣局が設置されるまでの六十九年間存続しました。>
写真下は、現在の中央区本石町にある日本銀行本店です。この土地は、江戸時代、金座がありました。小判の製造はこの地で行われていました。今でも、金座通りとして名前を残しています。


このように事件を起こすことで、幕府の力が衰えていきました。
写真下は、神奈川宿にあったイギリス領事館になった浄瀧寺です。

併せて読むと、幕末がよく理解できます。
・エメェ・アンベール「絵で見る幕末日本」を読む
・藤田覚「幕末の天皇」を読む
・H.シュリーマン「シュリーマン旅行記 清国・日本」を読む
・アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」を読む
・渡辺京二「逝(ゆ)きし世の面影」を読む
・宮本常一の「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」を読む


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