若山三郎「東武王国 小説根津嘉一郎」を読む

しかし、昔はよかったと思う勿れ。大学に入るのは簡単であったが、高等学校に入るのはたいへん難しかった。高等学校は現在の大学教養課程に当たるもので、高等学校受験は現在の大学受験に相当するわけで、実は受験戦争は今も昔も変わらないのである。
高等学校で有名なのは、ナンバースクールと呼ばれた第一高等学校から第八高等学校までの8つの高等学校で、その他に、東京高等学校・浦和高等学校・静岡高等学校などの高等学校があった。これらの高等学校はすべて官立であったが、私立の高等学校も存在した。ただし、私立の高等学校は、武蔵高等学校・成蹊高等学校・成城高等学校・甲南高等学校の4校しかなかった。学習院高等学校も存在したが、これは官立であった。
武蔵高等学校は、尋常科4年・高等科3年の7年生の学校であった。普通、官立の学校を進む場合、中学校5年・高等学校3年(優秀な生徒の場合、中学を4年で終了して高等学校に入学する者もいた)であったから、武蔵高等学校は1年短かったのである。元総理大臣の宮沢喜一は武蔵高等学校の出身である。
戦後、武蔵高等学校は、武蔵大学・武蔵高校・武蔵中学になった。武蔵高校はたくさんの東大合格者を輩出する絶大なる人気を誇る高校である。
武蔵高等学校は、東武鉄道を一流の会社に成長させ、鉄道王という異名をとった根津嘉一郎が私財を投じて創立した学校であった。
武蔵高等学校の教育理念は<自主独立の精神を涵養する>ことである。福沢諭吉の創立した慶応義塾と似ているが、この教育理念はとりもなおさず根津嘉一郎の人生哲学そのものであった。
根津は学校を作ったが、運営は元東京帝国大学総長の山川健次郎などにまかせ、一切口を出さなかった。<金は出すが、口は出さない>が根津の方針であった。
根津が高等学校を作ったきっかけは、アメリカに視察に行ったときである。アメリカで大成功した実業家は惜しげもなく公共のために寄付をしていた。根津もそれにならい公共のために寄付をすることを考えた。大倉商業学校を創立した大倉喜八郎の影響もあって、根津は学校の創立を思い立った。それが武蔵高等学校であった。根津は学校だけでなく、数えきれないくらい多額の金をいろいろなところに寄付をしている。
根津はこれからの日本を豊かにするには、自主独立の精神を持った若い人間をどしどし養成しなければと思ったのである。根津の生き方は自主独立を地でいくものであった。
若山三郎の「東武王国 小説根津嘉一郎」は波乱万丈に富んだ根津の生涯を描いた小説である。小説とはいえ、事実に基づいて物語は展開されていく。
根津の生涯を一言でいうと、まさに<己の道を行く>である。根津は子供の頃から、喧嘩は滅法強く、人に頭を下げるのがたいへん嫌いであった。山梨の庄屋の次男坊として生まれたが、自分が正しいと思ったことは何が何でもやり抜いた。負けん気と努力と時代を見通す洞察力が根津を大成功者に導いた。
当然、順風満帆な人生ではなかった。塗炭の苦しみを味わったことは何度もある。最も苦しんだのは、株が暴落したときである。日清戦争を期に株は上がり続けた。根津は銀行から金を借りまくって株の信用取引を行った。株が上がり続けているうちはよかったが、株は値上がり続けるものではない。株が下落し始めたときも、周囲の意見には耳を貸さずに株をやめなかった。結局、株は暴落し、根津は財産をすべて失い、莫大な借金が残った。血反吐を出すくらい苦しんだが、弱音を吐かずに踏ん張った。これを機に、株で儲けることは考えないで、実業で儲けることを考えた。
どん底から這い上がった男の力は強大で、根津は潰れかかった会社を経営し、そして見違えるように再生させた。東武鉄道もそのような会社の1つであった。根津が経営する前の東武鉄道は赤字続きで、いつ倒産してもおかしくなかった。しかし、これからは鉄道の時代だと確信していた根津は東武鉄道を経営するや、次々と緻密な計算のもと、大胆な投資を行い、東武鉄道を日光まで延伸し、利用客を爆発的に増やした。この東武鉄道の再生は根津の大実業家としての地位を不動のものにした。
根津は鉄道以外にもいろいろな分野に進出し、成功をおさめていく。いつしか、根津のグループ企業は根津財閥といわれるようになった。
昔の成功した実業家は金に糸目をつけず、どんどん公共のために寄付をした。現在私たちが豊かな暮らしができるのもこれらの寄付が土台になっていることを、私たちは決して忘れてはならない。


<名所・旧跡をめぐって>
写真上は、武蔵学園記念室の玄関に建っている根津嘉一郎像です。


記念室の展示場は2階にあり、2階まで登る階段は時代を思わせる堅固な造りでした。展示物を見学すると、創立にたずさわったメンバーや旧制武蔵高等学校の歴代校長は、日本史の教科書に載っているお歴歴の面々で、創立者の熱意が感じ取れるものでした。
展示場前には、建学の精神と思われる三理想が掲げられています。
1. 東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物
2. 世界に雄飛するにたえる人物
3. 自ら調べ自ら考える力ある人物
余談ですが、武蔵大学がある江古田は、室町時代の1477年に太田道灌と豊島泰経との間で行われた合戦で、長尾景春の乱の一つである江古田・沼袋原の戦いがあった場所です。戦(いくさ)は太田道灌が勝利しましたが、関東の地では、関東管領山内上杉家、扇谷上杉家、鎌倉公方・古河公方、国人、地侍が入り乱れて下剋上の時代に突入していました。
この年、京の応仁の乱は終結しましたが、関東の地では、北条早雲、氏綱親子が平定するまで、山内上杉家と扇谷上杉家の抗争が続きました。


< 昭和3年11月7日に催された京都会津会による慰霊祭での集合写真。前列左から3人目が新島八重、同じく8人目が山川健次郎。撮影場所の京都洛東に位置する通称「黒谷」の塔頭西雲寺は、幕末に松平容保(京都守護職)率いる会津本陣となり、その縁で、黒谷墓地の一角に「会津藩殉職者墓地」が置かれた。・・・>
健次郎の長兄である浩は陸軍少将であり、実妹の捨松は元老で陸軍元帥の大山巌の妻となり、鹿鳴館の華と謳われました。妻の鉚(りゅう)は、東京駅の設計者でお馴染みの辰野金吾の妻の実妹です。

根津は<社会から得た利益は社会に還元する>という信念のもと、鉄道事業、教育事業の他にも、文化事業にも力を注ぎました。
根津は古美術愛好家としても知られ、茶人でもあった彼の蒐集品を展示するため、没後「根津美術館」が設立されました。根津美術館は根津の私邸跡を利用した広大な日本庭園と、日本・東洋美術のあらゆる分野の一級品を揃えることで知られています。
大倉喜八郎の大倉集古館を大いに意識していたのだろうと思われます。今年(2014年)、世界から実力が認められている建築設計士の隈研吾が設計した新展示棟が竣工しました。どこまでも根津流を貫いています。

< 1720系は昭和35年に就役し、浅草~東武日光・鬼怒川方面へと走った特急列車です。当時の車両技術の粋を集めたオール電動車6両固定編成で、昭和48年までに7編成作られました。ジュークボックス付きのサロン室を備えるデラックス車両として長い間東武鉄道の看板特急でしたが、100系特急スペーシアにその女王の座をゆずり平成3年引退しました。>
写真下は、鬼怒川駅に停車している特急スペーシアです。


< 日光軌道線は、明治43年、日光精銅所の資材輸送を主目的に敷設されました。昭和22年に当社と合併しましたが、その後、観光客の増加にこたえ、開業以来使用していた旧形車を廃し、昭和28・29年に大形車を導入しました。この車両は昭和29年に汽車会社で造られた2車体3台車連接式の珍しい電車です。日光軌道線は、昭和43年に姿を消しました。>

開業当初は、「吾妻橋駅」です。隅田川に架かる吾妻橋(あづまばし)に由来しています。その「吾妻橋」の名称は、近接する都営浅草線の本所吾妻橋駅に現在でも残っています。。
2代目駅名の「浅草駅」は、東武鉄道での浅草への玄関口であることから付けられましたが、当駅の所在地は本所区でした。
3代目駅名の「業平橋駅」は、寛文二年に大横川に架橋された業平橋に由来します。
写真下は、現在の浅草駅です。業平橋駅に改称した時には、浅草雷門駅という駅名でした。

ブログ「名著を読む」には、根津嘉一郎と関係深い感想文を以下のように掲載しています。是非とも併せて読むと時代背景、人間関係らが理解できます。
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