エメェ・アンベール「絵で見る幕末日本」を読む

多くの外国人が日本に来るようになった。しかし、それと軌を一にして日本の国内では攘夷運動が一層盛り上がった。朝廷を始めとして多くの大名たちは開国に反対した。大老の井伊直弼は天皇の勅許もとらずに強引に条約を締結した。それが攘夷運動が燃え上がる大きなきっかけになった。攘夷運動はやがて倒幕運動に変わった。
強引に条約を結んだ井伊大老の行動が賢明であったかどうかはさておいて、条約によっていくつかの港が開港し、外国との往来が始まった。
横浜は条約締結の翌年に開港され、外国人たちの居留地になった。この居留地はさながら外国のようであった。横浜で流通していたのはオランダ語ではなく、英語であった。福沢諭吉は横浜に行ったとき、世界で通用するのはオランダ語ではなく、英語であることを知り、死にもの狂いで覚えたオランダ語を捨て、英語を必死で学んだ。その後の福沢の行動を考えるだけでも、横浜開港が近代日本を築く上で、大いなる貢献をしたことがわかるであろう。横浜の掃部山には井伊直弼の銅像が現在でも立っている。井伊直弼は横浜の恩人であるのだ。
幕末に来た外国人は西洋の文物を日本に持ち込むだけでなく、貴重なものも残してくれた。それは当時の日本のことを綴った見聞記である。現在の私たちはこれらの見聞記を読むことで、当時の日本の客観的な姿を知ることができる。
私はこれらのいくつかの見聞記を読んで、江戸時代の日本は世界にまれな平和で豊かな国であることを知った。見聞記を書いた外国人たちは、世界各地を回っている人が多く、それらの国と比較して、日本は天国のようだといっている。何よりも日本人には笑顔があるという。特に日本の子供たちはいつも笑顔を絶やさなかった。当時の世界では、子供たちが笑顔を振りまく国はめずらしかったのである。
数ある見聞記には、絵をふんだんに用いたものもある。エメェ・アンベールの「絵で見る幕末日本」である。この見聞記には、著者のアンベールが描いた当時の日本の風物の絵がたくさん載せられている。
アンベールはスイスの時計を扱う商人でありなおかつ外交官である。江戸幕府が各国と通商条約を結ぶとスイスも負けじと日本と条約を結ぼうとして、アンベールたちを日本に派遣した。時は1863(文久3)年である。一行は長崎に寄港し、それから横浜・江戸へと向かった。幕府とは交渉の上、めでたく通商条約を結ぶことができた。
「絵で見る幕末日本」は絵と文章とともに、日本とはどのような国かを紹介したもので、ヨーロッパの人たちに読ませるために出版された。
アンベールが長崎に着いたとき、まず、彼を驚かせたのが、長崎の自然の美しさであった。長崎の自然の美しさは、西洋の国で唯一日本と貿易を許されたオランダ人から、ヨーロッパに伝わっていたらしいが、アンベールは実際に、長崎の自然を見て、その美しさに感動している。長崎だけではなく、彼の見た日本の自然の美しさに感動している。
アンベールの一行は長崎を後にして、横浜に向かった。横浜には船で行くのであるが、瀬戸内海を通った。そのとき、現在の香川県の多度津港に寄港し、丸亀城を見たと記している。山の上に聳える丸亀城が絵に描かれている。
一行は横浜に着くと、オランダの領事館に逗留した。横浜は開港して間もないが、西洋風の家が次々と建てられていた。
横浜にしばらく逗留した後、一行はいよいよ江戸に入った。この見聞記では江戸の町のことを詳しく書いている。アンベールが江戸に入ったときは、攘夷運動真っ盛りで、攘夷を訴える浪人たちが跋扈していた。浪人たちが外国の領事館や外国人を襲う事件が頻発した。アメリカ公使館の通訳であったヒュースケンも1861(文久元)年に殺されている。ヒュースケンはアメリカ公使ハリスの右腕といわれた有能な人であった。
外国人にとってはとてつもなく物騒極まりない江戸の町であったが、アンベールはそのことにはあまり触れずに江戸の町の至るところに顔を出している。
高輪と愛宕下・江戸城の周辺・日本橋を中心とした商人の町・江戸の橋・江戸の芸術品と工業製品・江戸庶民の娯楽・祭りと祭日・浅草と吉原などについてきめ細かく書かれている。私はこれらの絵と文章は間違いなく歴史の一級資料になると感じた。
アンベールは、演劇などは西洋にはるかに劣るが、日本人の手の器用さを褒めている。将来、日本が優れた工業国になることを予見しているのである。
当時の江戸の人口はアンベールによると180万人らしい。そのほとんどが、幸福に暮らしているように見えたとアンベールは記している。


<名所・旧跡をめぐって>
写真上は、東京高輪にある東禅寺の三重塔です。東禅寺は、安政6(1859)年に日本で初めてイギリス公使館が置かれました。公使ラザフォード・オールコックが駐在しました。 東禅寺は、攘夷派の標的となり、文久元(1861)年に水戸藩浪士によって襲撃され、翌年には、護衛役の信濃松本藩士にによって再び襲撃され、イギリス人水兵2名が殺害されました。


< 当山の中門は古くから勅使門と呼ばれ、伝承によれば、文永の役(1274年)で亀山天皇の勅使寺となったとき以来の命名とされている。
寺院の門として最も重要な位置にあり、幕末のアンベール著の絵入り日本誌等に、その形が描写されていた。
当時の火災は免れたものの、昭和廿年五月廿五日戦災を受けて焼失し、昭和五十五年十一月五日の再建によって、現在の形を再び現わした。>
ちなみに、善福寺には、慶応義塾を創立した福沢諭吉の墓所があります。

< アメリカ総領事ハリスの通訳兼書記官として、安政三年(1856)七月に下田に到着したオランダ人ヒュースケンは、その後安政六年六月江戸麻布善福寺にアメリカ仮公使館が設けられるに及び江戸へ入り、ハリスの片腕となって、困難な日米間の折衝に活躍し、日米修好条約を調印にいたらしめ、また、日本と諸外国との条約締結にも尽力した人物である。
万延元年(1860)十二月、ヒュースケンは日本とプロシアとの修好条約の協議のため、会場であった赤羽接遇所と宿舎の間を騎馬で往復していたが、五日午後九時ごろ、宿舎への帰路、中ノ橋付近で一団の浪士に襲われ、刀で腹部等を深く切られて死亡した。
墓はカトリック教徒のため土葬が必要であったが、当時御府内では土葬が禁止されていたため、江戸府外であった光林寺に葬られた。>
以下の写真は、都心にある江戸の名残りを一部紹介します。東京に住んでいる人は、普段自動車で通り過ぎて、見過ごしているかもしれません。

< この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。
城の外側から順に、高麗門(こまもん)・枡形(ますがた)・渡櫓(わたりやぐら)・番所が石垣でかこまれていましたが、石垣の一部だけが、ここに残っています。
当時、石垣の西側は濠(ほり)となっていましたが、公園造成時の面影を偲び、心字池(しんじいけ)としました。>

< 正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門を見ることができます。
赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。
明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。>

< 浅草橋という町は昭和九年(1934)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川い架けられた橋の名にちなんでいる。
江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附というわれた。
この神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(1636)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。>

< 柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋架です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄十年(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。
その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、”柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
明治二十年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋架には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四年(1929)に完成しました。・・・>

< 高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710)に芝口門にたてられたのが起源である。享保九年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永七年説・寛政四年(1792)など諸説がある。
江戸の南の入口として、道幅約六間(約十メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
天保二年(1831)には、札の辻(現在の港区芝五の二九の十六)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。
京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。
江戸時代後期には木戸の整備は廃止され、現在は、海岸側に幅五・四メートル。長さ七・三メートル、高さ三・六メートルの石垣のみが残されている。
四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残されて、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。>
併せて読むと、外国から見た幕末がよく理解できます。
・H.シュリーマン「シュリーマン旅行記 清国・日本」を読む
・アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」を読む
・渡辺京二「逝(ゆ)きし世の面影」を読む
・宮本常一の「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」を読む


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