杉森久英「近衛文麿(上)(下)」を読む

元老とは幕府を倒して明治維新を成し遂げるにおいて、大原動力になった者たちで、伊藤博文・井上馨・山県有朋などがいた。明治も末になり大正になると、元老たちがぽつぽつと死んでいき、昭和になると、元老は西園寺公望ただ1人という状況になった。ということは、総理大臣は西園寺の一存で決まるということである。そのため西園寺の力は相当なもので、総理大臣になりたい者は、いかに西園寺に取り入るかを考えた。
西園寺は公家であった。満州事変が起こり、日本と中国の関係が悪化し、それが日中戦争につながっていく時期、日本の政界は混迷を極めた。軍部が台頭し、軍部が政治そのものを牛耳るようになった。当然、軍部は軍部に都合のよい総理大臣が就任することを望んだ。
西園寺は若い頃にヨーロッパに留学して自由主義を身に付けた人であった。西園寺が自分の後継者としてふさわしいと思っていたのが、同じ公家である近衛文麿であった。
昭和12年6月、近衛に大命が降下され、近衛は内閣総理大臣になった。総理大臣に就任してまもなく盧溝橋事件が起こって日中戦争になり、日本は長い泥沼の戦争に突き進んだのである。
戦後、近衛文麿の評判は悪い。その根拠は近衛がA級戦犯容疑者になり、巣鴨プリズンに収監される前夜、服毒自殺したからである。責任逃れの卑怯な振る舞いだと現在でも思われている。
日本は戦後長らく極東軍事裁判史観というものに縛られてきた。21世紀になって、この史観の見直しが叫ばれるようになったが、現在でも、これを金科玉条のごとく振りかざす歴史家・評論家は多い。極東軍事裁判史観を一言でいうと、<先の大戦はA級戦犯が始めたもので、責任はすべてA級戦犯が負う>というものである。
はたしてそうなのであろうか?近代史の本を読めば読むほど私は極東軍事裁判史観のいかがわしさを疑わざるを得ない。私はあの戦争の責任はA級戦犯だけでなく日本人全体でとるべきだと思っている。A級戦犯はある意味、国民に背中を押されて戦争に突き進んだのだと思わざるを得ない。
近衛が弱冠45歳で総理大臣になったのは、西園寺公望に可愛がられたと同時に国民の絶大なる期待があったからである。その頃、近衛は国民的ヒーローで、軍部を含めて日本人全体が近衛の総理大臣就任を望んだのである。それが、戦争に負けて、A級戦犯容疑者になると、手の平を返したように、日本中で近衛を罵倒する声があがった。近衛を総理大臣にした国民に責任はないのか。いつまでもあの戦争の責任をA級戦犯だけにかぶせるだけでは、私たちは本当の歴史を見逃すことになる。
杉森久英の「近衛文麿」はたいへんな名著である。近衛文麿を多面的に分析した評伝である。
近衛家は五摂家の一つである。五摂家とは藤原氏の嫡流で、近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家がある。関白・摂政は五摂家の者がなった。近衛家は五摂家の中でも筆頭格の家で、天皇家の次に位置するような家である。近衛家の先祖はあの大化の改新を行った中臣鎌足に行き着く。
公家は江戸時代は冷遇されたが、明治になると俄然、脚光を浴びた。明治は天皇が主権の世であり、近衛家は天皇家の側近中の側近である。近衛文麿は生まれると同時に日本のリーダーになることを運命づけられていたのである。
文麿は父は近衛篤麿(あつまろ)である。篤麿は国家主義の人で、学習院の院長として教育に熱心であった。文麿は近衛家の固いしきたりの中で成長し、学習院中学を卒業すると、ふつう公家の息子は学習院高校に進むのだが、一高に入学した。文麿は家柄だけでなく、頭もよかったのである。
一高時代に文麿の精神の基盤が作られた。文麿は文学・哲学に没頭した。文学では、トルストイ・徳富蘆花に特に傾注し、哲学では西田哲学に興味をもった。その頃は、将来は哲学の大学教授になることを考えていた。
しかし、京都帝大を卒業すると、文麿は政界の道を歩んだ。とんとん拍子に出世して総理大臣になった。文麿が総理大臣になった頃は、日中関係はもうどうにもならない関係であった。軍部は統帥権を盾に政府のいうことをきかなかった。
近衛文麿が3次までの内閣で全身全霊を傾けたのは日中・日米の和平である。特に、近衛は日米の開戦を全力で阻止しようとした。
近衛は思想的には国家主義者であるが、広く深い教養をもち、元文学青年だけあって、相手の国の文化を理解する能力をもっており、相手の国を気遣う気持ちももっていた。


写真上は、荻窪にある近衛文麿の旧邸荻外荘です。第二次世界大戦終結後戦犯として、巣鴨プリズンに収監される直前に、荻外荘で自らの命を絶ちました。荻外荘については以下の文書が参考になりましたので引用します。
<昭和十二年に、公爵近衛文麿氏が、現在の荻窪二丁目四十三番にある入沢達吉博士邸を買い求められ、元老西園寺公望より荻外荘と名付けていただきました。荻外荘は南斜面の高台にあって、善福寺川河谷を一望に収め、はるかに富士の霊峰を眺める景勝地にあり、大正天皇の侍医であった入沢博士が、大正初年に地主中田村右衛門氏より、松林一町歩を反あたり七百円で買い求めて建てた別荘でした。 同年六月に、近衛公が第一次近衛内閣を組織して総理大臣になられてから、荻窪の荻外荘の名が、毎日のように新聞紙上に現れ、荻窪の地名が一躍世に知られました。それとともに荻窪が高級住宅地であるというイメージが拡がりました。(「杉並風土記」杉並郷土史会昭和52年発行 森泰樹著)>
荻窪でも、2.26事件で陸軍教育総監渡辺錠太郎が自宅で殺害されました。また、渡辺錠太郎の自宅の傍には、大政翼賛会の設立に関わり、翼賛会初代事務局長になった伯爵で有馬家十五代当主である有馬頼寧の自宅もありました。有馬は、その後の近衛内閣の農林大臣を務めています。事件当日近衛も有馬も荻窪の自宅にいました。事件の報を聞いてどのように思ったのだろうか。
以前に、プロマガで山本一生「恋と伯爵と大正デモクラシー 有馬頼寧日記1919」の感想文を掲載しました。

< 公の諱は篤麿(あつまろ)、霞山(かざん)と号した大職冠藤原鎌足(かまたり)の後裔で、五摂家筆頭近衛家の第二十八代当主。文久三(1863)年六月二六日京都に生まる。
明治一七(1884)年、華族に列し公爵。翌年ドイツに留学、明治二三(1890)年帰国し、貴族院議員。明治二八(1895)年学習院院長、翌年貴族院議長に就任。時の内閣からしばしば入閣を懇請されたが固辞し、常に野にあって国政の大局的指導に当たった。
日清戦争前後における西欧列強の清国侵略に慷慨し、中国の保全と日中の協力を提唱。明治三一(1898)年東亜同文会を組織し、次いで上海に東亜同文書院、東京に東京同文書院を設立、日中両国学生の教育に尽瘁した。
ロシアの中国への南下を憂慮し、国民同盟会、対露同志会を結成し、国論の喚起に努めた。しかし不幸にして難病に罹り、日露開戦直前の明治三七(1904)年一月一日逝去・行年僅か四二歳。
当地は、公が明治三五(1902)年に晩年の居を定めたところでもあり、終焉の地となった。現在この辺は下落合と呼ばれるが別称近衛町ともいう。この記念碑は、公没後、二〇余年の大正一三(1924)年七月に建立された。>
近衛文麿は、12歳の時に父篤麿の逝去により、襲爵し近衛家の当主になりましたが、父の生前の活発な政治活動などで多額の借金を残し、文麿は借金をも相続しました。人格形成をめざす大切な時期の父の逝去と多額の借金は、若くして当主になった文麿に重くのしかかり、その後の成長に幾ばくかの影響を与えたと後年述懐しています。

この門には、「赤穂義士史蹟碑」があります。大石内蔵助はこの屋敷で切腹しました。碑には次のように刻まれています。
<正義を愛し名節を重んずる者は暫くここに歩を停めよ
此処は徳川時代細川邸の跡 実に赤穂義士の総帥大石良雄等十七名が元禄十六年二月四日壮烈な死を遂げた現場である。>
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Tag : 近衛文麿
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