ドナルド・キーン 篠田一士訳「日本との出会い」を読む

日本文学は2人のアメリカ人の偉大な翻訳家をもつことで、世界に知られるようになった。2人とはサイデンステッカーとドナルド・キーンである。2人の前にも日本文学を英語に翻訳したアメリカ人がいたが、2人の業績は群を抜いている。2人は日本文学の恩人といえるような人たちである。
サイデンステッカーが「雪国」を翻訳しなければ、川端康成のノーベル賞受賞は絶対になかったであろう。事実、川端はサイデンステッカーと2人で受賞したといい、賞金の半分をサイデンステッカーに渡したといわれている。
私が日本の古典を読むきっかけになったのは、学生の頃、はからずもアメリカ人のドナルド・キーンの本に出会ったことである。また、私が三島由紀夫に興味をもったのもドナルド・キーンの影響である。
ドナルド・キーンの本を読んで驚いたのは、アメリカ人のドナルド・キーンが異常なほど日本の古典が好きだということである。その頃、私は四苦八苦して谷﨑潤一郎訳の「源氏物語」を読んでいたのであるが、私にはたいへん難解なものであった。しかし、アメリカ人でも「源氏物語」を原文で読み、深く味わうことができると思って、なんとか「源氏物語」を読了した。
三島由紀夫にいたっては、ドナルド・キーンが翻訳をした「近代能楽集」を初めとして、三島文学をほとんど読破した。ある意味、ドナルド・キーンは私にとって、日本文学の先生である。
その先生が2012年に日本人になった。もともとドナルド・キーンは日本人以上に日本人的だと私は思っていたのだが、現実に、日本人になったという報道に接したとき、私は胸に迫るものを感じた。本当に日本が好きだと私は感極まった。
私が初めて読んだドナルド・キーンの本は「日本との出会い」である。この本はいわゆる何故自分が日本文学そして日本という国に強く惹かれるようになったかを中心に述べた自叙伝風の本である。
ドナルド・キーンは1922年にニューヨークで生まれた。三島由紀夫より3歳年上である。父親は貿易商であった。だからといって、ドナルドを日本に連れていったというわけではない。ドナルドの子供時代は日本は全くの小国で、日本に興味をもつアメリカ人はほとんどいなかった。
ドナルドが日本に興味をもったのはコロンビア大学に在学中のことである。たまたま講義で隣り合った学生が中国人で、その中国人と友人になり、漢字そして日本に興味をもち、日本語を勉強するようになった。日本語を深くマスターしたいという希望と生活の資を稼ぐ必要から大学を卒業すると、ドナルドは海軍の日本語学校に入学した。
日本語学校を終了すると、ドナルドは日米開戦に伴って、戦地に赴くことになった。ドナルドの仕事は戦死した日本兵の残した手紙を英語に翻訳することである。ガダルカナル島で戦死した日本兵の手紙を読んで、ドナルドは日本人そして日本に強く興味をもった。それらの手紙には、切々と国を思う内容が記されていた。普通、アメリカ兵の故郷に送る手紙には、早く故郷に帰りたいとういことが書かれていたという。
戦争を通じ、沖縄にも行ったドナルドは日本に対する興味をどんどん強めていった。戦争が終わって、イギリスのケンブリッジ大学で安定した研究生活を送れるのを振り切って、日本の京都大学に留学した。京都はドナルドにとって第二の故郷になった。ドナルドは京都において、一般の日本人が体験しない日本の古典芸能を満喫した。ドナルドは謡もやるのである。
ドナルドは日本文学を研究する傍ら、日本文学そして日本の文化を世界に紹介することも行った。ドナルドは、日本で文学関係者の間で有名になるにつれて、著名の日本の作家たちに会うようになった。川端康成・谷﨑潤一郎・三島由紀夫・安部公房・大江健三郎など、日本文学を代表する作家たちと友好を深めた。
「日本との出会い」の中で、最も印象に残ったのは、三島由紀夫と大江健三郎のことである。思想的にこの2人は真逆の関係にあると思われるのだが、大江は三島の作品に深く敬意を表している。特に、「奔馬」を高く評価したという。大江が「奔馬」が好きであることに私は少なからず驚いたが、やはり、文学は思想を超えたものであると再認識した。文学を思想と絡めて論じる人がいるけれど、邪道だと思う。
2011年3月11日に東北で大地震が起こった。ドナルドの心は傷ついた。東北はドナルドの大好きな松尾芭蕉が旅した土地である。
大地震の後、ドナルドは日本人になることを決心したという。


写真上は、江東区深川にある採荼庵(さいとあん)跡に旅立ち支度の姿で腰かけている俳人松尾芭蕉像です。採荼庵は芭蕉の門人杉山杉風(すぎやまさんぷう)の別荘です。

< 当庭園から北北西四百メートル程のところに深川芭蕉庵跡があります。松尾芭蕉は、延宝八年(1680)から元禄七年(1694)まで、門人の杉山杉風の生簀(いけす)の番屋を改築して、芭蕉庵として住んでいました。
かの有名な「古池の句」は、この芭蕉庵で貞享三年(1685)の春、詠まれています。・・・(中略)・・・
なお、当庭園の南東側、海辺橋緑地に採荼庵跡がありますが、芭蕉は元禄二年(1689)に「奥の細道」の旅をここから出発しました。>

< 当時は『ロンドン・タイムズ』の支局が、有楽町の朝日新聞社の七階にあった。私は三人の女性アシスタントの一人に、電話を掛けてもらった。三島はこの八年前の1960年に、隣り合った二軒の家を新築していた。一軒は両親のため、もう一軒は、新しく迎えた若い妻瑤子のためだった。
三島は長編『鏡子の家』の執筆の最中だったが、二軒の家の支払いのために、猛烈な勢いで原稿を書いていた。
電話を入れたのは、昼前後だった。三島は毎朝五時、六時まで、夜通し原稿を書くのが日課だっだ。昼前後でも、電話するには不適切だったが、当時はそんなことは、知らなかった。>

< 川端康成は、友人の尾崎士郎の誘いで馬込に移り、この頃は主に文芸時評を執筆しています。無口で人付き合いの苦手な人柄でしたが、文士たちが多く住んでいた臼田坂の途中(この辺り)に住まいがあったため、尾崎士郎らの訪問を度々受けることになります。 「賭けで負けたので・・・」と、婦人がある日突然断髪姿で帰宅したり、自らもあらぬ恋愛の噂を立てられたりで、村の騒ぎを高みで見物・・・とはいかなかったようです。>

< 谷崎潤一郎(1886~1965)は、明治十九年七月二十四日、この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれました。
同二十五年、阪本尋常高等小学校に入学しました。その後、父の事業の失敗により、近くを転々としました。若くして文筆にすぐれ、東京帝国大学国文科を家庭の事情で中退したのち、第二次『新思潮』の同人となり、『刺青』『少年』など耽美と背徳の世界を華麗に描いて、文芸界で名を成しました。
のち、日本的な伝統美に傾倒し。『蓼食ふ虫』、『春琴抄』『細雪』『少将滋幹の母』などを遺しています。その間、昭和十二年、芸術院会員に推され、同二十四年には文化勲章を受賞しました。>

< 私が死んだら、明治時代に日本を愛した二人のアメリカ人(フェノロサとビゲロ)と同じように、琵琶湖の近くのあの絵のように美しい三井寺に埋めて欲しいと思うことがある。でなければ、北海道は函館の、津軽海峡を見下ろす小さな墓地に、石川啄木と並べて埋めて欲しいものだ。いや、遺骨は灰にして海上に撒いてくれてもよい。いずれにせよ、ニューヨークの近辺の、あの殺風景な墓地の一つに埋められたとしたら、私は成仏できないのではあるまいか。>
歌碑には”ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく”と描かれています。
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