猪木正道「評伝吉田茂 (一) 青雲の巻」を読む

吉田は5度、内閣の総理大臣になっている。第1次吉田内閣は、1946年5月22日~1947年5月20日、第2次は、1948年10月15日~1949年2月26日、第3次は、1949年2月26日~1952年10月30日、第4次は1952年10月30日から1953年5月21日、第5次は、1953年5月21日~1954年12月7日で、合計7年近く内閣を従えたわけである。この期間に、吉田はアメリカと徹底的に交渉し、軍事を切り捨て、日本を経済国家への道に進ませ、日本をアメリカから独立させた。日本は吉田の思惑通り、アメリカの軍事力を傘にして、資源を経済に集中投資し、世界に冠たる経済大国を作り上げたのである。また、吉田は戦争をした国々と単独講和に成功し、平和国家日本を築いた。
毀誉褒貶いろいろあるが、吉田が歴史に残る偉大なる業績を成し遂げたことは確かである。
私は歴代の総理大臣の中では、吉田茂が一番好きである。その理由は、吉田の業績もさることながら、吉田が得も言われぬユーモア精神の持ち主だからである。学生時代、私は吉田健一の随筆が好きで、よく読んだ。吉田健一はイギリス文学者としても文芸評論家としても一流の人である。いつしか、私は吉田健一が吉田茂の息子と知るようになり、吉田健一に感心するのではなく、吉田茂に感心し、吉田茂という人間に非常に興味を持った。吉田健一もすばらしいユーモア感覚の持ち主であった。
猪木正道の「評伝 吉田茂」は吉田茂に関しての評伝の中では、おそらく最高の評伝であるだろう。「評伝 吉田茂」は4巻から成っている。猪木は三島由紀夫が尊敬する政治学者であり、防衛大学校長にもなった人なので、どこか民族主義的な人かと勘違いしてしまうが、とんでもない。たいへんリベラルな人で、偏見なく歴史的事実に真摯に向きあう碩学の政治学者である。三島由紀夫の目は確かであった。
猪木は、2人の先輩の学者から、「五十年後にも読める吉田茂の伝記を書いてくれ」という依頼を受けて、吉田茂の伝記を書いた。それが「評伝 吉田茂」である。2人の先輩の要望以上に、この評伝は優れたもので、100年後にも読める伝記である。
「評伝 吉田茂① 青雲巻」を読んで、私は吉田茂のユーモア精神がどこからくるのかを知った思いがした。
「評伝 吉田茂① 青雲巻」は吉田が生まれてから天津の総領事館勤務の時代までを扱ったものである。私がこの巻で最も感動したのは、まだ下っ端の外交官でしかなかった吉田が首相になったばかりの寺内正毅から、首相秘書官にならないかと誘われたとき、「首相なら勤まりますが、首相秘書官は勤まりません」といって誘いを断った件である。この言葉に吉田の全人格が詰まっているように私には思われた。
吉田は1878(明治11)年、竹内綱の五男として、東京に生まれた。竹内は土佐出身の自由民権運動家で、投獄され、その間に茂が生まれた。茂は生まれてから、竹内の友人である吉田健三の庇護のもとで育てられ、3歳のときに正式に吉田健三の養子になった。茂が吉田健三のもとに預けられるとき、茂の母親は吉田健三に「まことにつまらないものですが」と言って、茂を差し出したと、後年、吉田自身が述べ、お笑いしたという。息子もすごいけれど、母親もすごかったのである。茂の母親は芸者だったらしい。
吉田健三は横浜の貿易商で、巨万の富を築いた。その額、今のお金にしたら、100億を軽く超えていた。吉田は若くしてその巨万の富を相続したが、すべて、きれいに使ってしまった。
茂は小学校を卒業すると、藤沢にある耕余義塾に入学した。この耕余義塾は漢学塾で、茂は論語・史記・老子・三国志など中国の古典を徹底的に読まされた。
耕余義塾を卒業すると、日本中学などを経て、学習院に入学した。当時、学習院には大学科もあり、茂は大学科まで進むが、勉学途中に、大学科が廃止となり、茂は東京帝国大学法科大学に移った。
1906年、法科大学政治科を卒業すると、外交官試験に合格した。合格者は全部で11人おり、首席で合格したのが、広田弘毅だった。広田と吉田はよく対比される。広田はエリートコースを歩み、吉田は紆余曲折の道を辿った。戦前に広田は首相まで上り詰めるが、吉田は戦前は次官止まりである。ところが、広田は戦後、A級戦犯となり、死刑になった。 吉田が外交官になって初めての勤務地が奉天であった。吉田は領事館補であったが、これ以後、吉田は外交官として軍部と戦っていくことになる。吉田は、政府と軍部による二重政府を徹底的に嫌った。外交政策も軍部は独自に決めようとした。政府は軍部を動かすことができなかった。これが日本を破滅に導いた最も大きな原因である。吉田が外交官になってすぐにこの二重政府に違和感を覚えるのである。吉田は、陸軍が満州を拠点に中国を侵略しようとする時期に外交官のキャリアをスタートさせたのである。
外交官になって間もなくして、吉田はロンドンで短い間、勤務をした。このとき、吉田はシェイクスピア・ディケンズ・テニスンなどのイギリス文学を読み漁ったという。中でも特に、吉田のお気に入りは、ウッド・ハウスのユーモア小説であったという。吉田のユーモアがイギリス仕込みであることが、これでよくわかる。そういえば、夏目漱石のユーモアもイギリス仕込みであった。
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<ゆかりの地を訪ねて>

吉田の長兄竹内明太郎は早稲田大学理工学部を創立したり、日産自動車の前身ダットサンの設立にも加わった人です。日本の工業の発展に寄与した人です。
自由党総裁の板垣退助が岐阜で襲われて負傷したとき、出血しながら起き上がろうとするときに、吉田の実父竹内綱ら周りの人に「板垣死すとも自由は死せず」という名言を残しました。診療した医師が後の内務大臣、東京市長を務めた後藤新平です。

三島の長男彌太郎は日本銀行総裁、三男弥彦は日本で初めてのオリンピック選手になりました。吉田の叔父さんになります。吉田の孫の総理大臣を経験した麻生太郎もオリンピック選手でした。吉田の姻戚、縁戚には、政治家はもちろんのこと、皇族、銀行家、実業家、学者、スポーツ選手がいる華麗な一族です。
青山霊園には、吉田茂、大久保利通、三島通庸の墓所があります。

ジャーディン・マセソン商会本社はイギリスにあり、中国大陸には多数の支店を持ち、その当時世界にネットワークを持って、まさしく七つの海を制覇したイギリスの民間会社です。幕末に伊藤博文、井上馨、森有礼らの密航を手配しました。また、海外貿易では五代友厚、岩崎彌太郎、坂本龍馬らと取引関係を持ちました。
ブログ「名著を読む」には、牧野伸顕「回顧録」、杉森久英「大風呂敷 後藤新平の生涯」の読書感想文を掲載しています。「評伝吉田茂」と併せて読んでください。
Tag : 評伝吉田茂
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