山田義雄「花は一色にあらず」を読む

三越百貨店を世間に広く知らしめ、その経営を磐石にしたのは、大正2年に会長に就任した日比翁助(おうすけ)である。
日比はいかに百貨店を世間に認知させるかを必死に考え、<今日は帝劇、明日は三越>というキャッチフレーズをあみ出した。このキャッチフレーズは人々の耳に心地よく響き、三越は帝劇と同じくらいに高級かつ社交場というイメージを人々に植え付けた。以来、三越の名はブランド化し、日本を代表する百貨店としてその繁栄は現在まで続いている。 日比は慶応義塾出身であるが、生まれは九州久留米である。日比は慶応に入学する前に、久留米の北汭(ほくぜい)義塾という私塾で学んでいる。塾長は江崎済(えさきわたる)という高名な漢学者であった。この塾で、日比と机を並べた同窓に牛島謹爾(きんじ)がいた。この牛島こそ、将来アメリカで「ポテトキング」と呼ばれた男であった。
山田義雄著「花は一色にあらず」は牛島の生涯を描いた評伝小説である。たいへん感動的な小説である。
私は恥ずかしながら、この小説を読むまで牛島謹爾という人間を全く知らなかった。読後、牛島の人間としての器の大きさに驚愕した。明治の世には、牛島のように、現在の私たちには広く知られていないが、途方もなくスケールの大きな人間がたくさんいたに違いないとつい思ってしまった。
牛島のことは戦前の小学校の教科書には載っていたらしいが、戦後の教科書には扱われていない。おかしなことである。牛島のような人間の生き方を教えることが最高の教育だと私には思えるのだが。現在、日本に昔のような偉大な政治家・実業家が出ないのはまさしく貧困な教育のためであろう。
牛島の人生は大きく前半と後半の二つに分けられる。前半は久留米の農家の三男として生まれ、成長してアメリカに渡り、農業家として大成功するまでである。後半は、アメリカで起こった排日の運動に対し体を張って戦い、ついに63歳でこの世を去るまでである。 牛島は生まれつき頭がよく勉強好きであった。両親は何とか勉強を続けさせたかったが、中学校を中途でやめ、家の仕事を手伝った。しかし、学問の道をあきらめきれず、江崎済の北汭義塾で学ぶことになった。
牛島は江崎に強く感化され、将来は漢学者になろうとするが、東京に出て、アメリカに行くことに決めた。アメリカで何をするという目標もなかったが、サンフランシスコに渡り、農業をやることを決心した。
農業をやろうと決めてからの牛島は、寸暇を惜しんで働き、やがて自分の小さな農地を持つ。それから、誰も欲しがらないデルタ地帯(湿地帯)を買い取り、そこを開拓して見事な農地に仕立てた。一度は破産したが、それも乗り越えて、アメリカで一番といってよいほどの大農場を経営するようになった。アメリカ人のほとんどが、牛島の農場でとれるポテトを食べた。牛島は大成功した。
牛島が移住した頃のアメリカ社会と日本人移民との関係は良好であったが、二十世紀になると、アメリカ社会は日本人移民を嫌い出し、日本人移民は土地を持つことを禁じられるまでになった。
牛島は日米の架け橋になるべく、私財を投げ打って、日本とアメリカのために東奔西走したが、その志半ばに斃れた。
現在の日本とアメリカの友好関係は、過去のアメリカ日系人の血と涙と汗の結晶の上になりたっていることを私は痛切に感じた。



写真下は、株式会社ブリヂストン東京工場です。私にとって、久留米出身者としてすぐに思い浮かべるのはブリヂストンの創業者石橋正二郎翁と私の大学時代にデビューした歌手の松田聖子さんとJRAの師走のG1レース「有馬記念」です。ブリヂストン東京工場は大学時代に担当教授に連れられて見学したことがあり、そのときに頂いたパンフレットを読んで記憶に残っていました。松田聖子さんの「青い珊瑚礁」は海水浴に行った鵠沼海岸でひっきり無しにかかっていたのでその後も興味を持ってテレビを見ていました。「有馬記念」は社会人になって競馬に関心を持ち競馬について調べたことがありました。有馬記念は、旧久留米藩の当主で農林大臣も務め、中央競馬会の理事長であった有馬頼寧(ありまよりやす)の名をとって付けられたいうことでした。久留米は著名人を多く輩出している地域だとあらためて思いました。
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