猪木正道「評伝吉田茂 (三) 雌伏の巻」を読む

私は城山三郎の「落日燃ゆ」を読んで幻滅したことを覚えている。城山のこの小説の主人公の広田弘毅を見る目が余りにも軽薄のように思えたからである。広田が本当に「落日燃ゆ」のような振る舞いをしたならば、なぜA級戦犯になったのであろうか。GHQの目はそれこそ節穴だったのか。
昭和に入ってから太平洋戦争が終結するまで、日本の政府は軍部の傀儡になっていたが、軍部だけが悪いのではなく、その軍部に媚びへつらう政治家たちがいたことを決して忘れてはいけない。犬養毅や鳩山一郎はときとして美化されることがあるが、この二人がどれだけ軍部と共謀して、政治を攪乱したかわからないほどだ。犬養が5・15事件で軍人将校に殺されたのは皮肉としか言いようがない。ロンドン軍縮会議で、日本政府が海軍の軍備力の縮小を決断したときに、統帥権干犯なるもので、政府を責めたのは当時野党の政治家であった鳩山一郎であった。この統帥権干犯を錦の御旗にして、軍部がやりたいことをして、日本が亡びたのである。鳩山一郎は党利党略のために国を潰した政治家であった。この男がA級戦犯にならなかったのは不思議だ。
猪木正道著「評伝吉田茂③雌伏の巻」は、吉田茂が昭和11年に駐英大使になったときから、終戦直後、外務大臣になり、新憲法ができるまでを扱っている。昭和11年2月に2・26事件が起こってから、太平洋戦争が終結するまでは、政府は完全に軍部に牛耳られた。そのような状態にあっても、吉田は、太平洋戦争が始まるまでは、いかに、アメリカ・イギリスとの戦争を避けるかに苦心した。
軍部そして軍部に操られていた政治家たちはアメリカを完全に甘く見ていた。軍部は満州を根城にして、中国全土を侵略し始めた。中国ばかりでなく、仏印インドシナ(今のベトナム)まで進駐した。これに対して、アメリカ・イギリスは日本を徹底的に非難した。吉田はイギリスに対して弁明を試みた。
日本政府はナチスドイツとイタリアとの三国同盟を急いだ。ナチスドイツと組めばアメリカは怖れをなして、日本に戦争を仕掛けないと日本政府は高をくくったのである。
しかし、日本政府の思惑はすべてはずれ、日本はアメリカとの戦争に突入した。戦争直前のアメリカからの和平案すなわちハル・ノートはとうてい日本政府は飲めなかった。
日本は戦争を始めたが、戦争回避の道はいくつもあった。昭和天皇が戦争をしたくなかったからだ。何とか戦争を回避しようとしたが、広田弘毅・近衛文麿のような軍部の操り人形の首相たちが、軍部を恐れて、戦争回避のことを天皇に進言できなかったのである。勇気を奮って、天皇に進言していれば戦争は起こらなかったかもしれない。

戦争が始まる前から、吉田は浪人になっていたが、戦争が始まっても、吉田は和平の道を探るために暗躍した。その行動が軍部に嫌われ、吉田は憲兵に捕まり、監獄送りとなった。しかし、これが戦後、大いに幸いした。吉田は、和平に尽くしたという理由で、アメリカから信用され、たくさんの政治家が公職追放になる中、吉田は政府の中心人物になっていく。
戦後、日本がアメリカを後見人として、急速に経済が発展し、豊かになったのは、吉田とアメリカとの信頼関係があったのは間違いないことである。もし、吉田がいなかったらと思うと、私はぞっとする。
戦争直後の東久邇内閣で、吉田は外務大臣になった。吉田はまずマッカサーと信頼関係を結び、マッカサーと昭和天皇の会見も仲介した。マッカサーは昭和天皇の人格にいたく敬服した。かくして、日本は吉田茂と昭和天皇とアメリカとの信頼関係で、復興の道を歩むことになる。
私は「評伝吉田茂③雌伏の巻」を読んで、日本が太平洋戦争終結まで、世界から無茶苦茶に嫌われていたことを認識した。時の政府はそれに気が付かなかった。それに一番気が付いていたのはやはり吉田茂であった。
世界中を敵に回すことがいかに酷い結果を生むかを、戦争が終わって70年近くたつが、私たちは決して忘れてはいけないと痛切に私は思った。
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