外山滋比古「思考の整理学」を読む
3月11日に東日本大震災が起こってから、4ヶ月近くたっても、未だに福島原発事故がいつ終息するかがわからない。日がたつうちに事態が好転しているのならともかく、事態がよくなっているようには露とも感じられない。いろいろと手を尽くしているようには見えるが、光は全く見えない。
日本はこれまで技術大国と自負してきたが、今や日本の技術力に対して不信の目が向けられている。はたして日本の技術力は本当に優秀なのであろうか。
今回の大震災によってはからずも日本の教育の問題点があきらかになった。今まで経験したことのない状況になると、ほとんど機能しない人間を作り出すのが日本の教育のようだ。
日本の教育では、答えのあることしか教えていない。答えのある問題の要領のよい解き方は教えてくれるが、答えのない問題にどう対処していくかについては全くといってよいほど教えてくれない。日本の教育はただ単にマニュアル人間を育てているにすぎない。
目標すらも先生が決めるもので、生徒たちは与えられた目標に到達するために努力する。目標にいかに速くそして正確に到達するかが優秀といわれるかの基準である。東大生というのは、与えられた課題を速く正確に処理するという意味において、優秀なのである。創造性が豊かであることと優秀であることとは無縁である。逆に、創造性のある人間は現在の教育制度の中では排除される。
原発を推進した人たちのほとんどが東大を筆頭とする一流大学卒であり、原発の研究の先頭にたつのが東京大学の教授たちである。彼らは今回の事故について、「想定外の事故」だといって自己弁護している。「想定外」とは「答えのない問題に対しては私たちは解答を求めない」といっていることと同じである。答えのない問題を解決しようとすることが、人類の進歩につながると思うのだが。
外山滋比古の「思考の整理学」は、新しい考えを導くには頭の中をどう整理したらよいかを解説した本である。なるほどと感心させられることが多い。このような本が書けるのは、外山自身がつねに創造的発想を心がけているからであろう。
外山は大学教授である。外山には強い危機意識がある。それは、大学生たちが誰かの力を借りれば思考することができるが、自らの力で思考することができないことである。外山はこのような人間をグライダー人間と呼び、自らの力で考えられる人間を飛行機人間と呼んでいる。あきらかに、日本の教育はグライダー人間を養成していると見ているのである。外山のこの指摘は日本の教育の本質をついている。今の大学生たちは自分で卒論のテーマも決められないのである。グライダー人間の行く末が「想定外」といえば許されると思っている社会の指導層である。
新しいことを考えるのは至難の技である。歴史に名を残す人たちはどのようにして頭を働かせたのであろうか。詰め込み式に、やたらと知識を吸収しても新しい発想はできないと外山はいう。頭に入れた知識を整理し、再構築しなければならない。そのためには忘れることが非常に大事だという。
また、ただやみくもに考えても駄目である。創造性のある考えをするにはそれなりの考え方があるというのがこの本の論点である。いろいろな例を出して、この論点の説明をしている。どれも説得力のあるものである。
外山は発想力をつけるには文学を読むことをすすめている。その理由も納得できるものである。
世の中に出たら答えのある問題などほとんどない。答えのない問題に対してどう挑んでいくか、その力を養うのが教育であるはずだ。
若い人特に大学生に「思考の整理学」を読んでほしい。


日本はこれまで技術大国と自負してきたが、今や日本の技術力に対して不信の目が向けられている。はたして日本の技術力は本当に優秀なのであろうか。
今回の大震災によってはからずも日本の教育の問題点があきらかになった。今まで経験したことのない状況になると、ほとんど機能しない人間を作り出すのが日本の教育のようだ。
日本の教育では、答えのあることしか教えていない。答えのある問題の要領のよい解き方は教えてくれるが、答えのない問題にどう対処していくかについては全くといってよいほど教えてくれない。日本の教育はただ単にマニュアル人間を育てているにすぎない。
目標すらも先生が決めるもので、生徒たちは与えられた目標に到達するために努力する。目標にいかに速くそして正確に到達するかが優秀といわれるかの基準である。東大生というのは、与えられた課題を速く正確に処理するという意味において、優秀なのである。創造性が豊かであることと優秀であることとは無縁である。逆に、創造性のある人間は現在の教育制度の中では排除される。
原発を推進した人たちのほとんどが東大を筆頭とする一流大学卒であり、原発の研究の先頭にたつのが東京大学の教授たちである。彼らは今回の事故について、「想定外の事故」だといって自己弁護している。「想定外」とは「答えのない問題に対しては私たちは解答を求めない」といっていることと同じである。答えのない問題を解決しようとすることが、人類の進歩につながると思うのだが。
外山滋比古の「思考の整理学」は、新しい考えを導くには頭の中をどう整理したらよいかを解説した本である。なるほどと感心させられることが多い。このような本が書けるのは、外山自身がつねに創造的発想を心がけているからであろう。
外山は大学教授である。外山には強い危機意識がある。それは、大学生たちが誰かの力を借りれば思考することができるが、自らの力で思考することができないことである。外山はこのような人間をグライダー人間と呼び、自らの力で考えられる人間を飛行機人間と呼んでいる。あきらかに、日本の教育はグライダー人間を養成していると見ているのである。外山のこの指摘は日本の教育の本質をついている。今の大学生たちは自分で卒論のテーマも決められないのである。グライダー人間の行く末が「想定外」といえば許されると思っている社会の指導層である。
新しいことを考えるのは至難の技である。歴史に名を残す人たちはどのようにして頭を働かせたのであろうか。詰め込み式に、やたらと知識を吸収しても新しい発想はできないと外山はいう。頭に入れた知識を整理し、再構築しなければならない。そのためには忘れることが非常に大事だという。
また、ただやみくもに考えても駄目である。創造性のある考えをするにはそれなりの考え方があるというのがこの本の論点である。いろいろな例を出して、この論点の説明をしている。どれも説得力のあるものである。
外山は発想力をつけるには文学を読むことをすすめている。その理由も納得できるものである。
世の中に出たら答えのある問題などほとんどない。答えのない問題に対してどう挑んでいくか、その力を養うのが教育であるはずだ。
若い人特に大学生に「思考の整理学」を読んでほしい。


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Tag : 思考の整理学
水村美苗「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」を読む

日本近代文学で、優れた国民文学を書いた作家を5人あげろといわれたら、私は、夏目漱石・森鴎外・谷崎潤一郎・永井荷風・志賀直哉をあげる。川端も大江も残念ながら5人の中には入らない。
漱石の作品は英訳されているが、そんなに評判はよくない。おもしろくないというのが、その理由であるが、よくよく考えてみれば、「吾輩は猫である」にしても、「坊っちゃん」にしても、日本語で読むからおもしろいのであって、英訳されたら、日本語のおもしろさが消えてしまうであろうに。「吾輩は猫である」からおもしろいのであって、<I am a cat.>ではいかにもつまらない。主人公の猫を敵視する車屋の黒の抱腹絶倒する名セリフははたして英訳が可能であろうか。
谷崎の「細雪」は日本語の美しさを満喫させてくれるが、これも英訳されたら、味気ないものになるであろう。
結論めいたことをいえば、ノーベル文学賞というのは、英訳されて西洋人に評価される作品を書いた作家に与えられる賞で、日本文学の最高傑作を書いた人に与えられる賞とはかなり違うものだということである。
当たり前のようだが、日本文学とは日本語で書かれたものである。別の角度から見ると、日本語は優れた文学を書ける言語である。このことは当たり前のようで、実は当たり前でない。言葉はあるが、優れた文学をもたない言語圏は世界中たくさんあるからである。
だが、だんだん日本語で優れた文学が書かれなくなってきているのである。作家の力量の問題ではなく、日本語に対する扱いの問題である。
水村美苗の「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」は日本語の危機に対して痛快に警鐘を鳴らしている本である。あまりに的を射た指摘に私は思わず拍手を送りたい気になった。
水村は日本人が英語を勉強することを決して非難はしていない。日本人が日本語に目を向けないのを非難している。水村は日本人が日本近代文学が読めなくなるのを強く憂慮し、国語教育を変革して、高校の国語の教科書に、樋口一葉を始めとして、日本近代文学の主だった作品を原文のまま載せて、生徒に何回も読ませるべきだと主張している。私もまったく同感である。
水村は作家であり、日本語を愛し、日本語を真剣に残すべきだと主張する。その主張を支えているのが次のような日本語に対する思いである。
人間をある人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。それも、長い<書き言葉>の伝統をもった日本語なのである。(七章 英語教育と日本語教育)
私は水村のこの日本語に対する思いに接したとき、ドーデの「最後の授業」を思いだした。ドイツに占領されてもフランス語さえ残れば、フランスはかならず復活するというのが「最後の授業」の主題である。これは日本語も同じである。英語ばかり追いかけて、日本語を忘れてしまったら、日本はなくなってしまうかもしれない。日本語とはとりもなおさず日本文化であると水村はいう。だからこそ、思春期の頃から、優れた日本語で書かれた日本近代文学を読まなくてはいけないのである。
言葉は単なる伝達の手段ではない。言葉が失われたとき、文化も亡くなる。


写真は、東京中央区日本橋蛎殻町にある谷崎潤一郎生誕地の碑です。
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江沢洋「理科が危ない」を読む
東日本大震災以来、原子力発電に対する非難はすさまじい。連日、原子力発電と放射能のことがニュースの中心になっている。
今や、原子力発電が日本人の最大の関心事になっている観を呈しているが、はたして、どれだけの人が原子力についての正しい認識を持っているのであろうか。そもそも原子力とは一体何なのかを知っているのであろうか。
ウランやプルトニウムがなぜ巨大なエネルギーを生むことができるのであろうか。アインシュタインは1905年に相対性理論を発表した。その相対性理論の中で、質量がエネルギーに変換されることを示した。質量がエネルギーに変わると、そのエネルギーは膨大なものになる。原子核が2つの物質に分裂すると、2つの物質の質量の和は、もとの原子核の質量の和よりも小さい。減少した質量はエネルギーに変わっている。そのエネルギーが原子力である。
以上のことは高等学校の物理で学習する。震災以後、物知り顔で原子力発電を非難する人たちが増えたが、せめて原子力とはどのようなものであるかを説明できるようにしたいものである。
生徒の理科離れがいわれて久しい。生徒の学力低下と同様に理科離れは由々しき問題である。高等学校において現在では、物理の履修者は20%を割り込んでいる。1970年では、90%を超えていたことを考えると隔世の感がある。5人のうちの4人が物理を学習していないのである。物理は自然科学の土台になっているものである。物理がわからなければ化学・地学がわからず、化学がわからなければ生物・地学がわからないのである。これで日本は科学立国になれるのであろうか。今回の震災で日本の科学技術の脆弱さが露呈したのではないのか。真剣に物理離れは議論されるべきである。
江沢洋の「理科は危ない」は生徒・学生の理科特に物理離れに対して、いかにしたら科学に対して興味をもたせられるかを論じた本である。江沢は旧制高校出身の理論物理学者である。江沢は物理離れを心から憂慮している。
江沢はよくある安易な受験勉強批判や暗記勉強批判は展開していない。受験勉強だろうが、暗記だろうが必要なことであるとしている。江沢が主張しているのは<勉強とは本来自分で行う>ということである。
現在の日本の教育において、最も問題なのは、<勉強とは教わることだ>と考えられていることである。勉強は学校・塾・予備校で教わるものであると思われていることに江沢は強く警鐘を鳴らしている。学校・塾・予備校が教えてくれる問題にはすべて答えがある。そんな状況で、疑問など起こりようがないのである。生徒たちは知的欲求からでなく、試験に合格するために勉強している。江沢は自分の意志で対象を教科書意外まで広めて勉強するくらいにならなければだめだといっている。
この本の中で、経済学者の野口悠紀雄について言及している。野口は現在の日本では最高の部類にはいる経済学者である。私は野口の書いたものを読むのが好きである。難しいことも論理的にわかりやすく説明されている。私は野口の書いたものを読むたびに、野口がたいへん頭のよい人だと感心する。
野口は高校時代、高木貞治の「解析概論」やカントールの集合論を勉強していたという。当然、強制されたものではなく、野口の自由意志で勉強している。江沢はこのような勉強が本当な勉強だという。
江沢自身、旧制の中学・高校時代は学校で習う意外のことを勉強をしている。その勉強とは科学に関した雑誌や本を読むことであった。それによって江沢は物理学者になろうとしたのである。
自由に自分の意志で科学の勉強ができる環境を作ることが必要だと江沢は力説するのである。
大発見は自由な勉強から生まれる。勉強のやり方を本気になって考えなくてはいけない時期にきている。

今や、原子力発電が日本人の最大の関心事になっている観を呈しているが、はたして、どれだけの人が原子力についての正しい認識を持っているのであろうか。そもそも原子力とは一体何なのかを知っているのであろうか。
ウランやプルトニウムがなぜ巨大なエネルギーを生むことができるのであろうか。アインシュタインは1905年に相対性理論を発表した。その相対性理論の中で、質量がエネルギーに変換されることを示した。質量がエネルギーに変わると、そのエネルギーは膨大なものになる。原子核が2つの物質に分裂すると、2つの物質の質量の和は、もとの原子核の質量の和よりも小さい。減少した質量はエネルギーに変わっている。そのエネルギーが原子力である。
以上のことは高等学校の物理で学習する。震災以後、物知り顔で原子力発電を非難する人たちが増えたが、せめて原子力とはどのようなものであるかを説明できるようにしたいものである。
生徒の理科離れがいわれて久しい。生徒の学力低下と同様に理科離れは由々しき問題である。高等学校において現在では、物理の履修者は20%を割り込んでいる。1970年では、90%を超えていたことを考えると隔世の感がある。5人のうちの4人が物理を学習していないのである。物理は自然科学の土台になっているものである。物理がわからなければ化学・地学がわからず、化学がわからなければ生物・地学がわからないのである。これで日本は科学立国になれるのであろうか。今回の震災で日本の科学技術の脆弱さが露呈したのではないのか。真剣に物理離れは議論されるべきである。
江沢洋の「理科は危ない」は生徒・学生の理科特に物理離れに対して、いかにしたら科学に対して興味をもたせられるかを論じた本である。江沢は旧制高校出身の理論物理学者である。江沢は物理離れを心から憂慮している。
江沢はよくある安易な受験勉強批判や暗記勉強批判は展開していない。受験勉強だろうが、暗記だろうが必要なことであるとしている。江沢が主張しているのは<勉強とは本来自分で行う>ということである。
現在の日本の教育において、最も問題なのは、<勉強とは教わることだ>と考えられていることである。勉強は学校・塾・予備校で教わるものであると思われていることに江沢は強く警鐘を鳴らしている。学校・塾・予備校が教えてくれる問題にはすべて答えがある。そんな状況で、疑問など起こりようがないのである。生徒たちは知的欲求からでなく、試験に合格するために勉強している。江沢は自分の意志で対象を教科書意外まで広めて勉強するくらいにならなければだめだといっている。
この本の中で、経済学者の野口悠紀雄について言及している。野口は現在の日本では最高の部類にはいる経済学者である。私は野口の書いたものを読むのが好きである。難しいことも論理的にわかりやすく説明されている。私は野口の書いたものを読むたびに、野口がたいへん頭のよい人だと感心する。
野口は高校時代、高木貞治の「解析概論」やカントールの集合論を勉強していたという。当然、強制されたものではなく、野口の自由意志で勉強している。江沢はこのような勉強が本当な勉強だという。
江沢自身、旧制の中学・高校時代は学校で習う意外のことを勉強をしている。その勉強とは科学に関した雑誌や本を読むことであった。それによって江沢は物理学者になろうとしたのである。
自由に自分の意志で科学の勉強ができる環境を作ることが必要だと江沢は力説するのである。
大発見は自由な勉強から生まれる。勉強のやり方を本気になって考えなくてはいけない時期にきている。


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Tag : 理科が危ない
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