立花隆・利根川進「精神と物質」を読む
いつの日か、精神の領域が物質レベルまで下げられて、説明されるのが可能になるのではないか。いい換えると心の中が科学的に読まれる日がくるかもしれないということである。昨今の脳科学そして分子生物学の進歩を聞き及ぶにつれ、脳の動きが完全に解明され、結果として心の動きまでも解明されるのではないかとつい思ってしまう。
脳の解明といっても基本になるのは細胞であり、細胞の動きを司っているのが遺伝子というものである。細胞というのはもともとは生物学の研究領域であったが、20世紀後半になると、分子生物学という新しい学問領域が出現し、細胞とくに遺伝子(DNA)は分子生物学によって研究されている。
分子生物学は今や生命研究の主流になり、この研究分野が人類に大きな富を提供することもわかった。分子生物学を自家薬籠中のものにするかで、その国の将来が占われるのではないかともいわれはじめた。
分子生物学とは、細胞を分子の領域まで掘り下げて研究するものである。具体的にいうと、細胞を構成しているタンパク質、そしてタンパク質をつくっているアミノ酸の構造が何を意味するかの研究である。遺伝子の解明とはすなわちアミノ酸の構造を解明することでもある。
20世紀後半、分子生物学は急速に進歩していった。その研究者の1人が利根川進である。利根川は1987年度のノーベル生物学・医学賞を受賞した。受賞理由は<抗体の多様性生成の遺伝学的原理の解明>であった。素人には何をいっているのか全くわからない受賞理由である。
「精神の物質」(文春文庫)は評論家の立花隆が利根川進と20時間にも及ぶ対談をした記録である。利根川の業績、業績にいたるまでの足跡そしてなぜ分子生物学という未知の世界に飛び込んだかということが克明に記されている。ただし、分子生物学の立花による解説は、立花は高校の生物レベルの知識があればわかるといっているが、かなり難しい。それでも、立花の解説は要点をうまくとらえていて見事である。
「精神と物質」を一読して何といっても衝撃的だったのは利根川の科学研究に対する哲学である。それはたとえば以下のような利根川の言葉によく表れている。
<まず、何より間違った実験をやるから時間がかかるのですね。科学者の研究なんてね、大部分間違ったことをやってるんです>
<ぼくもラッキーですよ。つまりね、何かを発見するということは、研究者の努力の積み重ねだけでできるというものじゃないんですね。結局、科学というのは、自然の探求のわけね>
<サイエンスでは、自分自身がコンヴィンス(確信)することが一番大切なんです>
<サイエンスというのは、最初に発見した者だけが勝利者なんです。発見というのは、一回だけしか起こらない。同じものをもう一度見つけても、発見とはいわないんです。一カ月のちがいでも、一週間のちがいでも、早い方だけが発見なんです。サイエンスでは二度目の発見なんて、意味がない。ゼロです。だから競争は激烈です>
上のような類の発言が本書の中では到るところで見られる。そのたびに私は科学研究の世界の厳しさを思い知るのである。そして最先端で活躍する科学者たちの壮絶な戦いの姿を見る思いがした。
特に、刺激的なことは、利根川にいわせると、
<努力すればなんとかなる>
という言葉が単なる甘い幻想でしかないということである。努力してもほとんど報われないというのがサイエンスの世界だといっているのである。間違った方向に努力をしたら科学者は一生を棒に振るのである。それであまりにも多くの科学者が一生を棒に振るのだ。それでは、何が科学者を成功に導かせるのか。利根川はセンスと運だという。だが、そのセンスと運も偶然に支配されるとも利根川はいう。
偶然というあいまいな中で、一位になるかその他大勢になるかの勝負に科学者は日夜挑んでいるのである。利根川は真に戦う人だけがもつ強靭な魂をもった妥協を許さない人間であると私は見た。
「精神と物質」を読んで、立花の教養の深さそして広さに改めて驚かされた。本当によく勉強をしている人だ。この書によって利根川の業績の核心をおぼろげながらに読者に伝えられるのは立花の的を射た質問そして立花による解説にあることは疑う余地のないところである。
立花はこの書を通じて、分子生物学も含めた世界で進行中の最先端の科学に日本人は本気になって挑戦せよといっているようだ。
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山田済斎「西郷南洲遺訓」を読む

庄内藩の人たちはどんな仕打ちがなされるのかと戦々恐々としていたが、お咎めはほとんどないに等しかった。それは西郷隆盛の意向であった。
戊辰の役の後、東北の多くの人たちは薩摩・長州藩を恨んだが、意外にも西郷隆盛を悪くいう人は少なかった。その理由が上にあげた庄内藩に対する寛大な処置にあるのは明らかであろう。
西郷南洲はとてつもなく度量の大きな人であった。西郷の度量の大きさは何も庄内藩だけに示したものでなく、他にもいろいろな状況・場面で示している。ただ、その度量の大きさが仇(あだ)になって、賊軍という汚名を着て、鹿児島の城山で果てるのは何とも惜しいことである。
西郷南洲とはどんな人間であったのか。西郷ほどわかっているようでわからない人もいないのではないか。西郷は何を考えそしてどこへ向かおうとしていたのか。西郷の行動原理は未だにわからないことが多い。そもそも西南戦争とは何のための戦争だったのか。
明治10年の西南戦争後、西郷は当然のごとく陸軍大将という官位は剥奪され、国賊となった。明治22年に大日本帝国憲法が発布されると、俄かに西郷の名誉挽回の運動が起こり、結局、西郷の名誉は復活し、西郷は上野の山で銅像となった。西郷の名誉を挽回しよううとしたとき、西郷の生前の言行録がまとめられた。この言行録は、維新になって鹿児島に下野した西郷を訪ねた庄内藩の藩士が西郷から聞いた話が中心になっている。この言行録が「西郷南洲遺訓」である。
「西郷南洲遺訓」は西郷の話したことをまとめたものであって、西郷自ら書き残したものではない。それでも西郷の生の声を聞くようであり、そして西郷がふだん何を考えていたのかがよくわかる。
西郷の思想の中心は何といっても私利私欲の全くないことである。<児孫のために美田を求めず>は西郷の考えを端的に表す代表的な言葉である。いたるところ、西郷の無欲さが語られる。
西郷には私欲はなかったが、使命はあった。その使命とは天を敬いそして人を愛することである。すなわち<敬天愛人>である。この4文字がどうやら西郷の行動原理であったらしい。
西郷のすごさというのは、やはり小にこだわらず、大局的にものを見ることができることであろう。西郷の大きさをすぐに見抜いたのが、勝海舟であり、その弟子坂本龍馬であった。西郷の大局的にものを見る目がなかったら、薩長同盟もなかったし、江戸は火の海となっていたかもしれない。
「西郷南洲遺訓」には論語臭さが漂うが、それはとりもなおさず西郷が陽明学者であったとう証明にもなろう。義のために行動する。それは西郷その人の姿だと思う。
「西郷南洲遺訓」全編に漂うのが、西郷が全く死を恐れていないことである。西郷の偉大さはとりもなおさず死をも恐れないということを今さらながら気付かされた。西郷南洲という人は死をも超えていた人なのかもしれない。
西郷はどんな思いでこの世を去っていったのであろうか。



写真は、鹿児島県鹿児島市にある西郷隆盛生誕地の碑です。この土地から、明治の元勲が多数輩出しています。ちなみに、西郷の弟である西郷従道と従兄弟の大山巌は元勲でしたが、尊敬する兄と兄と慕う従道と巌は西南の役の件で総理大臣職を辞退しています。
この「名著を読む」には、以前にも内村鑑三「代表的日本人」、江藤淳「南洲残影」で西郷隆盛を取り上げています。西郷周辺関連では、アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」、勝海舟「氷川清話」などをお読みいただければ幕末~西南の役までの背景がそれなりにわかると思います。是非合わせてお読みください。
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Tag : 西郷南洲遺訓
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