三島由紀夫「若きサムライのために」を読む

戦後67年間、日本は一度たりとも戦争の影に怯えることはなかったが、今回の領土問題で、日本は戦後初めて戦争の可能性を認識したのではないのか。日本人は戦後、戦争は悪であると教えられてきた。平和憲法を押し付けたアメリカは国益のためには平気で戦争をやり、原爆も落とす。日本では、戦争を肯定することは大きなタブーである。日本人はいつしか、平和的に戦争は回避できると思い込むようになった。少なくとも、話し合いで、日本は戦争を回避できると信じるようになったのだ。核などなくても、平和は維持できるとも思っている。
はたして本当に戦争は回避できるのであろうか。世界には、話し合いができないという国が存在することを、はからずも今回の領土問題は証明してくれた。日本が戦争をしなくても、しかけてくる国が厳然と存在するのである。おもしろいことに、あれだけ戦争反対と声高にいっていたマスコミの論調が以前とは変わってきた。マスコミは中国・韓国に同調しなくなった。
考えてみれば、戦争反対の声が最も大きくなったのは1970(昭和45年)の安保闘争の頃であった。あのときは、東大の学生を筆頭とする全共闘が、戦争に巻き込まれるからという理由で、日米安保条約の破棄と自衛隊の解体を叫んだ。この要求が可能だったのは、日本が絶対に戦争をしないという安心があったからではないのか。マスコミは軍備増強を強く反対したが、戦争を肯定し、軍事力を増強せよといった大作家がいた。三島由紀夫である。
「若きサムライのために」は、昭和44年(すなわち三島の死の一年前)に発行されたエッセー・対談を纏めた本である。
私は中国で反日デモが起こったときから、無性に三島の作品が読みたくなった。特に、三島の生の意見を聞きたかった。なぜなら、三島はつねづね中国が攻めてくるといっていたからである。
この本は小説と違って、三島がわかりやすくかつ直截的に意見を述べている。私は三島の生の声を聞く思いがした。
特に感銘したのは、シェイクスピアの翻訳では第一人者の福田恒存との対談「文武両道と死の哲学」で語られている<守るためには命を捨ててもいいという観念>ということである。三島はよく命よりも大切なものがあるといっていた。今思えば、三島は命より大切なものがあることを訴えたくて自決をしたのではないかとさえ思う。
日本の教育では、命より大切なものがあるという概念は真っ先に否定されるものである。だが、私は素直に否定することはできない。三島の<死>から40年以上たっても三島の作品が生きているのは、命に代えても守るべき本当に大切なものの存在を多くの日本人が無意識のうちに感じているからであると思われる。
三島は古典を読まない文化人を嫌い、日本の文化・伝統を否定しておきながら、お茶漬けを好む日本人を嫌悪した。文化・伝統・歴史を踏みにじられても、命大事に、守るべきものを守らないことに三島は痛憤し、警鐘を鳴らしているのである。
今年の夏、馬込にある三島の家を見に行った。今では誰も住んでいない家であるが、門には<三島由紀夫>という表札がかかっていた。三島の提起した問題を真剣に考える時期に日本はきているのではないかと、私は三島の家を見ながらつくづく思った。



写真左は、三島由紀夫邸から徒歩数分のところに建っていた川端康成の案内板です。ガイドブック馬込文士村によると、昭和3(1928)年、川端康成29歳のときに尾崎士郎に誘われて大森の子母沢へ移り、のちに臼田坂へ越す。子母沢時代から犬を飼い始める。と書いてあります。また、案内板には< 川端康成は、友人の尾崎士郎の誘いで馬込に移り、この頃は主に文芸時評を執筆しています。無口で人付き合いの苦手な人柄でしたが、臼田坂の途中(この辺り)に住まいがあったため、尾崎士郎らの訪問を度々受けることになります。・・・>と書いてあります。

< 昭和20年3月、川端康成は、20歳の三島由紀夫から最初の小説集「花ざかりの森」を贈られ礼状を認めます。そして、終戦をはさんだ翌年の1月、三島は原稿を携え川端を訪ねました。川端はそれを読み雑誌「人間」に推薦、三島は本格的に文壇デビューします。そこから、三島が亡くなりまで24年にわたり二人は深く交流しました。・・・>
このブログを書く数日前に今年のノーベル文学賞に発表がありました。川端康成は昭和43(1968)年12月12日スウェーデン・アカデミーでノーベル文学賞受賞記念講演で「美しい日本の私ーその序説」を行いました。ブログ「名著を読む」には「美しい日本の私」の読書感想文を掲載しています。興味がありましたらクリックしてください。
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